【水墨画の歴史】中国に始まり日本で継承されていった水墨画とは

こんにちは

水墨画家のCHIKAです。

水墨画と墨絵とどう違うの?
という質問をよく耳にします。

このブログを読んでくださった
方々にとってはとってもやさしい
質問になりましたよね(・∀・)ウン!!

墨で描かれたもの全般が墨絵、
その中の一つのジャンルとして
水墨画が存在します。

でもなんかまだもやっとして
はっきりしない感じ?😶

そんな時はちょっと
歴史を辿ってみましょう。
きっと知ることで
あなたの絵に深みが出ること
間違いなしです!

今回は本家本元の
中国水墨画とは
どのような絵画で、
その始まりから
完成期の時代までを
書いてみたいと思います。

そして日本がどう水墨画を
吸収していったかを
見ていきたいと思います。

【水墨画の歴史】中国画三つの流れ


ここでは中国絵画の
三つの流れを
お話ししたいと思います。

中国の水墨画と聴いて
まず頭に浮かぶのは
山水画ですね。

魏晋南北朝時代(3~6世紀)には
山水画らしきものが
描かれるようになります。

それまでの中国画は
宗教(道釈)画や壁画など
華やかな着色画中心でした。

山水画が普通に描かれるように
なったのが唐の時代(7~10世紀)

8世紀頃になると
撥墨法が表現手段として
使われるようになったこともあり、
山水画の技法の一つであった
水墨画が次第に独立した形に
なっていきます。

画期的な表現方法や
文人画家の出現によって
それまでの華やかな着色画に
変わって水墨画がメインに
なっていきます。
(五代十国時代~北宋時代)

北宋末の11世紀になると
今日、日本では馴染み深い
花卉雑画が水墨画の
ジャンルとして確立します。

一方、宮廷では画院が
設立され工筆(細密)画と
呼ばれる花鳥画を中心に
写実を追求していきました。

これで山水画、文人画、花鳥画という
大きな三つの流れが出来ました。
それがこの北宋時代にほぼ
完成した形になります。

中国絵画の歴史の中で
北宋時代というのは
とても重要な時代に
位置づけられています。

これで大雑把な流れが
掴めたことと思います。

それでは日本人にとって
もっとも馴染み深いのに
もっとも難解な水墨画の歴史を
もう少しじっくり見て
いくことにしましょう。

【水墨画の歴史】仏教伝来


中国で山水画が描かれるように
なったのは魏晋南北朝時代
(3~6世紀)ですが、
始まりはとても稚拙な画でした。

ところが外来の文化が流れ込み
仏教が盛んになると
絵画の需要が一気に増えて
レベルも上がっていきます。

北涼時代(4世紀頃)に始まった
敦煌壁画も西域の影響を
受けて立体的表現に
工夫が見られるようになります。

西域文化では隈取りや
色のグラデーションによって
面的表現がされている

それに対して、
中国ではあくまでによって
立体を表現しようとする
工夫がされていたようです。

線にこだわった表現が
山水画の『皴法』となり、

やがてその立体表現を
墨のグラデーションによって
工夫する水墨画表現が現れます。

それにしても北涼時代から
元時代に至る1千年
仏教絵画の流れが辿れる
敦煌壁画はまさに
奇跡中の奇跡です。

【水墨画の歴史】唐時代


敦煌莫高窟 第57窟壁画『観音菩薩像』唐時代/ウィキペディアより

中国は唐王朝(618-917)時代の後期、
山水画の一つの技法として
水墨画は始まりました。

【水墨画の歴史】面表現

それまで仏画や白描画は
均一な太さの輪郭線で
描かれていました。

敦煌壁画など仏画を
じっくり観てみると
素晴らしく均一に、
それなのに無機的ではなく
生命力さえ感じられる線で
描かれています。

水墨画はというと
線の抑揚だけでなく
面表現が大きな特徴です。

その特徴が山水画の
表現の中で存分に
発揮されました。

筆の中の水分量を
調節することによって
一筆でグラデーションの
表現を可能にしたのです

【水墨画の歴史】線表現

唐時代には線の変化もあります。

それまで仏画を中心に
肥痩のない均一な線で
あったのに対して、
肥痩のある線が出てきます。

山水画では輪郭線の中に
線を引くいわゆる『皴法』
積極的に使われるようになります。

と同時にいっそ輪郭線を
やめてしまおうということから
『没骨法』の技法が現れたり、
模索が始まります。

【水墨画の歴史】書画一致


もともと書と画は
「その用具、筆法、
表現方法を同一にする」
と言われています。

それゆえ中国では
著名な画家は同時に
書家でもあったのです。

絵画表現となると
やはり書より複雑な表現
を必要とされますが、
画を学んでいる人が
書を学ぶことは筆さばきも
勢いも力強くなるとは
容易に想像出来そうですね。

逆に書を学んでいる人が
画を学ぶと筆さばきが
軽やかで自由になり、
表現に幅が出てくるとも
言われています。

唐時代後期、
造形面でも精神面でも
表現可能になった水墨画は、
それまで主流であった
着彩画を凌ぐ勢いで
メインストリームとなっていきます。

【水墨画の歴史】撥墨法の誕生

その水墨画の中でも
一つの技として注目されるのが
「撥墨法」という前衛的手法でした。

8世紀の唐の時代に
一世を風靡しました。

墨を注ぎ散らして出来た
偶然の形を山や岩などに見立て
最後にちょちょっと墨を加えて
完成させる。

国際色豊かな唐時代の街頭で
大道芸人のような
パフォーマーが繰り広げる
ストリートパフォーマンス
を想像させます。

それまでの絵画は
輪郭線をしっかり描き、
その内側に着色していくのが
当たり前でしたから、
この手法の誕生は、
その当時の人々の意識を
大きく変えていったことと思います。

このような自然発生的に
生まれた技法も
当時の絵画の流れに
もまれながら折り合いをつけながら
より芸術的に進化していきます。

【水墨画の歴史】五代十国時代

「匡廬図 」董源 五代時代/ウィキペディアより

唐王朝は国際色豊かな
文化交流が盛んな時代でした。

絵画の主流も人物画(道釈画)と
着彩画でした。

その一方で山水画、水墨画も
着々と次の時代の
準備がなされて
続く五代十国時代
水墨山水画が大きく
発展していきました。

中国と一言でいっても
広大な面積を有していますから
その場所によって
異なる発展をしていきます。

華北山水画(北方山水画家)

荊浩(けいこう)、関同(かんどう)
「荊関」と称される
画家たちによって厳しい
北方の風土が描かれました。

ごつごつした岩肌、
寒々として聳え立つ
岩壁に圧倒される画です。

江南山水画(南方山水画家)

董源(とうげん)、巨然(きょねん)
南方の湿潤な大気に霞んだ
穏やかな 風景を描いています。
「遠くに身を引いて初めて
何が描かれているかわかる」
とも評されています。

【水墨画の歴史】宮廷画院

桃鳩図 徽宗/ウィキペディアより

五代十国時代(10世紀頃)には
宮廷画院が成立します。

宮廷好みとして
彩色された緻密な工筆画
挙げられますが、
写意画と呼ばれる水墨画技法を
主体とした絵画も
盛んに描かれています。

北宋末期には風流皇帝、
徽宗が自らも筆を持って
芸術の賛助に力を注ぎました。

それによって南宋時代にも
引き継がれ、芸術発展も
最高潮を迎えます。

【水墨画の歴史】北宋時代

虹橋(清明上河図巻部分)/ウィキペディアより

【水墨画の歴史】完成から発展

北宋時代に入って
水墨画は完成されます。

そこではもう単なる
風景画ではなく中国人の
世界観が表現されていて、
真理が追究されている世界です。

北宋は中央集権的な
国家体制をとりました。

それゆえ民族的・文化的
アイデンティティーを
大切にしました。

自分たちの優れている点は何か
を必死で求めたため、
中国人しか描けない
中国人のための絵画作り
が盛んになります。

つまり岩や山を描いていても
その中に中国人の人生観
まで語られている、
ということらしいのですが、
何とも深すぎて
理解が難しそうですね。

李成(りせい)、郭煕(かくき)、
范寛(はんかん)
この時代に活躍した大家です。

【水墨画の歴史】気象表現

この時代にもう一つ
画期的な表現として
風や雨の表現に成功しています。

単に線で表現したり
するのではなく、
“大気”自体を
表現しているのです。

中国画は細部にこだわり、
“形”を大切にしますが、
同時に“気”も重要な要素であり、
この宋時代に完成とピークを
迎えます。

【水墨画の歴史】花卉雑画

竹図 徐胃 フリーア美術館蔵/ウィキペディアより

いよいよ私たちに
馴染み深い水墨画に
近づいてきました!!

北宋末の11世紀に
“花卉雑画”という
水墨画の大きなジャンルが
出現します。

この“花卉雑画”は
文人画家によって始められ
彼らの余技として
描かれていきました。

その中でも知られているのが
蘇軾(蘇東坡)という文人。

「技だけではだめなんだよ。
制作態度に表れるからね。
精神性を磨かなきゃ」

論画以形似
絵画を論じるのに 形が似ていることを 問題にする
見与児童隣
そんな見解は子供同然 ・・・・・・・

蘇東坡の詩より一部抜粋

素人画(文人画)であっても
人格、精神性が問題、
と言うわけですね。

彼らは本職ではないため
墨戯、つまり
何ものにもとらわれない自由
を意識した画ということです。

この蘇軾の出現で
絵画はそれまでの記録的、
再現的な意味を持つものから
自己表現へと変化していき、
今でいう“アーティスト”
としての地位が確立していった
ことになります。

そしてさらに
その裾野を広げていきます。

蘇軾を除いて中国文化史は
語れない、と言われているほど
影響力の大きい人なのです。

【水墨画の歴史】南宋時代

漁村夕照図 牧谿 (国宝 根津美術館蔵)/ウィキペディアより

北宋の王朝が金に滅ぼされ、
分裂して南に南宋の王朝を
築きます。12~13世紀

北宋時代同様に、
画院が設置され南宋画の
中心となっていきます。

馬遠(ばえん)、夏珪(かけい)、
梁楷(りょうかい)、
牧谿(もっけい)らが
主な画家です。

特徴としては
北宋時代の大画面から
小画面の山水画に変化
していきます。

構図も景色の一部を
画面の一方に寄せた
辺角構図をとって、
小画面なのに大空間を
作り出す手法をとりました。

【水墨画の歴史】日本への影響

日本には禅宗伝来と共に
宋元の文物が
“唐物”と称して移入されて、
中でも南宋画は親しみやすく
人気を博していきます。

そして日本の山水画、水墨画
制作に多大な影響を
及ぼしていきます。

【水墨画の歴史】中国との違い


ここまで中国水墨画の流れを
みてきました。

決定的に違うのは、
中国画は叙事的で
日本のは叙情的である
と言われます。

中国水墨画は中国人の
人生観が織り込まれている絵画、
つまり一つの世界観を
作り込んでいく。
ということで説明的
であるのに対して、

日本の水墨画は
お手本をそのまま継承しつつ
日本の風土にあった
花鳥風月で表現しなおす
「感じる水墨画」と言っても
良いのではないでしょうか。

では次に日本を
観ていきたいと思います。

日本の水墨画はどのように
発展してきたのでしょう。

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【水墨画の歴史】鎌倉時代


日本は鎌倉時代、
禅と共に中国の水墨画を
そのまま受け入れました。

“禅林画”“禅宗画”と呼ばれ
禅僧が修行の一環として、
或いは絵仏師が描いていました。

『達磨図』や『瓢鮎図』、
高僧の肖像画などが描かれ
のちに山水画も描かれるように
なります。

こうした禅僧が中心になって
制作されていた頃のことを
「初期水墨画」と称されます。

その頃の画家としては
可翁、黙庵などです。

【水墨画の歴史】室町時代


中国では明時代(14~17世紀)。

国内では日明貿易によって
宋、元、明時代の織物、書画、
工藝品、印刷術、水墨画など
大陸文化が持ち込まれました。

足利幕府は禅宗を庇護し、
文化の面にも力を入れたため、
日本の水墨画の全盛期を迎えます。

日本人にはわかりづらい
北宋絵画よりも
日本人の美的嗜好にあった
明快な南宋絵画が
“唐物”として人気を博しました。

人気の作家としては
馬遠、夏珪、梁楷など

足利義政が将軍の時には
“同胞衆”と呼ばれる
目利きも側近として出現します。

彼ら自身、阿弥派と呼ばれ
水墨山水画を描いています。

『東山御物』と呼ばれる
足利家の宝物の中には、
今日私たちも目にすることが
出来る南宋絵画の名品が
数多く含まれています。

とりわけ牧谿は日本の水墨画に
大きな影響を与えました。

私たちの中にある
日本の水墨画のイメージは
この頃についたものと言えます。

【水墨画の歴史】“○○風”

将軍や大名たち、貴族の間で
人気があり珍重されたのが、
夏珪、馬遠、牧谿、
梁楷、玉澗などの作品でした。

中国本国よりも日本で
人気があったほどです。

雪舟も貴族や大名の
依頼を受けて
“夏珪風に”“牧谿風に”と
描いていました。
『筆様制作』と呼ばれています。

雪舟の活躍した時代は
まだアーティスト的な
画家は存在せず、絵画の
エキスパート的存在でした。

「線と面の違い」はコチラ
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水墨画と墨絵の違いって?をスッキリ解説|線の魅力、面の魅力

応仁の乱を境に
寺院や権力者のものであった
中国様式の絵画他も
地方へ流れていきます。

画聖雪舟はちょうど
この頃活躍した人で、
のちの雪舟様式流行の
基盤を築いていきます。

【水墨画の歴史】戦国~江戸時代

松林図屏風(左隻)引用:ウィキペディアより

戦国時代を迎えても
雪舟様式は大流行したようで、
狩野派は室町水墨画の
継承者として漢画
さらに発展させていきます。

漢画とは中国画のことで
江戸時代からの呼び方です。
それまでの中国画は
唐絵と呼んで区別しています。

狩野派に立ち向かった
長谷川等伯も雪舟の
後継者であると自称。

【水墨画の歴史】下絵の名作?!『松林図屏風』を描いた長谷川等伯とは

狩野派の中興の祖、探幽
雪舟様式を取り入れながら
従来の画風を新しい様式に
改革していきました。

もう一つの流れがあります。

江戸時代に入って
平和な時代の到来で、
豊かな町民文化が発達します。

本阿弥光悦と俵屋宗達
によって始まったのが琳派です。

彼らもまた花鳥風月を
大事にした日本らしい
水墨作品を多数描きました。

この頃は滲む紙はまだ
使用されていないため、
ぼかしを効果的に
使って独特の柔らかさを
出しています。

【水墨画の歴史】江戸時代中~後期

「夜色楼台図」国宝 与謝蕪村/ウィキペディアより

【水墨画の歴史】文人画家

江戸中期になると
煎茶をはじめ
中国趣味が流行します。

文人画もその一つです。

中国文人に憧れた絵師たちが、
水墨画の技法を駆使して
『南画』を描き始めます。

池大雅与謝蕪村
(どちらも上方の画家)が
その代表的絵師です。

少し遅れて江戸後期、
江戸の代表的文人画家には
谷文晁がいます。

江戸文人画の指導的
立場であった彼は
門人たちも多く、
画壇に大きな影響を
及ぼした人でした。

時代の流れもあってか、
中国画や西洋画を積極的に
学び画風に取り入れて
いった画家でもあります。

谷文晁の興味深い
画訓を見つけました。

「まず今の人の絵を真似、
その後に遠い中国の画家を
学ぶこと、私は一生その
心掛けで通した・・・」

また別の画訓では
「古画の模写を重ね
その趣意に通じて後、
現実の事物において
形状を確かめ写生する。

それからさらに
写生の域を脱して
その人なりの画法を立てる」

参考文献:「日本水墨画全史」小林忠著より

取り組みやすいところから
入ってさらに難しさに挑戦する。

現代でも十分活用できる
絵画の学び方ではないでしょうか。

【水墨画の歴史】江戸ルネサンス


文化の成熟がさらに
進んでいくと
様々な流派が登場します。

まさに江戸のルネッサンス
言われるくらい続々と
ビッグネームな絵師たちが
現れます。

それぞれ他の時代では
出てこないような個性派の
絵師たちです。

若冲は面白い経歴を持った
独学の孤高の絵師です。

後半生は水墨画をよく
描いています。

【水墨画の歴史】伊藤若冲は水墨画も凄い!独学絵師脅威の表現法

もう一人のビッグネームは
写生を重んじた円山応挙です。
一大流派を作りました。

彼自身、弟子たちもまた
水墨画の技法も取り入れながら
様々な画風に取り組んでいます。

【水墨画の歴史】粉本か写生か


日本はカタチから入ると
書きましたが、
粉本もまたそのひとつです。

日本人はカタチ=型を重んじる
民族ですが、

西洋画が入ってきた時など、
歴史上でたびたび
問題になっています。

『自由な発想が生まれない』
『個性が蝕まれてしまう』
というのが理由です。

江戸時代の粉本と写生とは
どういったものだったのでしょう?

【水墨画の歴史】粉本の狩野派

粉本とはお手本のことです。

狩野派はこの粉本を武器に、
巨大な組織を形成していきます。

今では考えられないことですが、
この時代に個々のアーティストは
存在しません。

必要なのは個性ではなく、
一派が一丸となって
権力者の要望に
応えていくことだったのです。

ということは没個性で、
誰もが同じレベルの画を
描くために“粉本”が
大きな意味を持っていました。

ただし別の効果もあります。

狩野派が一大ピラミッド型組織を
形成したことによって
江戸の人々の絵画に対する
懐の深さが育っていったと
言えるのです。

【水墨画の歴史】写生の円山派

一方、写生と言えば
京都の片田舎から
出てきた円山応挙が
その第一人者です。

とにかく本物を見て
よく観察すること。
そして形を写すだけでなく
真意を読み取れ

と説いています。

この時代の絵の習い方として
ほとんどが狩野派の門を叩きます。

応挙も最初は狩野派に
学んでいます。

けれど『眼鏡画』を製作
していたこともあり、
新しい時代の感覚が
身に着いたのでしょうか?
写生を重視する画を
確立していきます。

伝統的な装飾性を備え、
写生をし尽くした上での略描です。

平明かつ斬新な画風で
一世を風靡します。

その中には
水墨画風に描かれた
国宝級のものがあります。

応挙の弟子たちは
『応挙十哲』を筆頭に
千人以上と言われており、
その弟子たちが脈々と
応挙の教えを語り継いで
いきます。

弟子たちの中にも
水墨画の名品が沢山あります。

【水墨画の歴史】模倣から日本風へ

引用:ウィキペディアより/天橋立図 (京都国立博物館)

鎌倉時代の初期水墨画から
江戸末期までに
大和絵や琳派のデザイン画、
俳画、はたまた浮世絵肉筆画等々、

ここまで全くの模倣から始まって
日本の様々な画風と混じり合って
日本独特の水墨画が
育って発展してきました。

【水墨画の歴史】西洋画化


明治時代を境に
西洋化が一気に進みます。

日本人は今まで積み上げてきた
文化をすべて否定するように、
西洋化一本になっていきます。

この時に初めて
「日本画」という名称が
使われるようになります。
西洋画と区別するためです。

それでもフェノロサや
岡倉天心たちの努力で、
西洋に対抗できる
新たな日本画を創造して
後世に繋いでいくことになります。

それが今の日本画であり、
絵画化した水墨画なのです。

【水墨画の歴史】温故知新


日本に渡ってくると
何もかもが柔らかく穏やかに
抒情的になっていく感が
ありますね。

中国の説明的な水墨画も
日本に来るとそんなに
歴史を重ねない間に、
花鳥風月に変化して
独特の形になっていきました。

それでも滲みと濃淡を活かした
日本のモノトーン絵画は
彩色画では表し尽くせない
精神安定剤的(表現が適切で
ない場合はお許しを)役割を
持っていると私は思います。

かつて「水墨画なんて
色もないし古臭い感じがする」と
思っていましたし、とても
色彩豊かな絵画から比べても
魅力を感じる世界では
ありませんでした。

まさか自分がその道を目指すとは!

心境の変化はまず筆を持って
描いてみた瞬間だったと思います。

水墨画の持つ精神性と
今となっては日本的な
抒情的画風が作れる点
だと思ってます。

黒という色はすべての色が
溶け込んでいて作り出すのに
最も難しい色だそうです。

それゆえ自然の墨色は
どんな色も見せてくれる
不思議な色なのです。

知っておこう!固形墨と墨液のこと
⇩ ⇩ ⇩

【水墨画初心者】描くために知っておこう!固形墨と墨液のこと

谷文晁の言葉を借りると、
今の絵画を学んで
日本の水墨画と
遠い中国の水墨画を
学んでいくことは、
新しい水墨画を生み出す
きっと最良の方法に
なるのではないでしょうか。

【水墨画の歴史】まとめ

まだまだ語りつくせない
水墨画の世界ですが、
さらに描くことによって
その思い、深めていきたいと思います。

ここまでお付き合いいただき
ありがとうございます。

1.中国水墨画の成立から完成まで
2.日本の水墨画の流れ
3.温故知新の学び方

ABOUT US

はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。水墨画を独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and errorで実践中。“変化・継承する素晴らしさを自然から学びたい”思いで里山暮らしを体験中。野鳥好き・猫好き。アクリル画にも挑戦中。京都生まれ