こんにちは
水墨画作家のCHIKAです
水墨画を語るのに
この人を外すわけにはいきません。
水墨画に馴染みのない方であっても
『雪舟』という名前はどこかで
聞いたことがあると思います。
多くの方は彼の幼少期の
“涙で描いた鼠”の逸話を
思い出されるのではないでしょうか
今回は、この涙鼠の小僧さんが
なぜ“画聖”と言われるまでになったか?
辿ってみたいと思います。
同時に、歴史の流れに挑んだ
絵師(画家)を私なりに
考えたいと思います。
目次
[水墨画/雪舟]禅寺へ入る
雪舟は応永27年(1420年)、
備中国赤浜(現在の岡山県総社市)
に生まれます。
幼くして近くの禅寺、
宝福寺に預けられ、
禅僧としての道を歩む
ことになります。
[水墨画/雪舟]涙の鼠
禅僧になるため、幼くして
この寺に入った少年(のちの雪舟)は、
禅の修行はそっちのけで、
好きな絵ばかり描いて
日々を過ごしていました。それに腹を立てた
住職(じゅうしょく)は、
ある朝、少年を本堂の柱に
縛(しば)りつけてしまうのですが、
少し可哀想(かわいそう)に思い、
夕方になって、本堂を覗(のぞ)いて
みることにしました。すると、少年の足もとで一匹の大きな
鼠(ねずみ)が動き回っている
ではありませんか。
少年が噛(か)まれては大変と思い、
住職はそれを追い払おうとしましたが、
不思議(ふしぎ)なことに
鼠はいっこうに動く気配
(けはい)がありません。
それもそのはず、その鼠は
生きた鼠ではなく、少年が
こぼした涙を足の親指につけ、
床に描いたものだったのです。
・・・・・・・・・
引用元:京都国立博物館
この話は江戸時代初期の絵師、
狩野永納が著した「本朝画史」
という本の中で初登場します。
江戸時代になっても
水墨画の大家として
歴史に名を刻んでいる人
だったのですね。
大家には後の世の人たちの
希望やら思惑で、逸話の
内容も膨らんでいきます。
[水墨画/雪舟]この時代の禅寺とは
鎌倉時代に伝えられた禅宗は
室町時代になると
足利幕府の庇護の下で
大きく発展していきます。
その禅僧たちが当時の
学問や文芸の分野を
担っていました。
当時最先端の学問・芸術が
集まっていたのですね。
現代ではちょっと想像が
難しいですが、寺院は常に
最先端の情報源であり、
情報発信の場所でもあったのです。
雪舟もまた
文芸で身を立てるためには
画僧となって修行を積むことが
唯一の道でありました。
[水墨画/雪舟]相国寺での修行
[水墨画/雪舟]相国寺での修行
エピソードが示す通り
雪舟は幼くして
絵の才能を認められ、
やがて京都に上ります。
京都五山のひとつ、相国寺で
修行に励みます。
春林周藤という人が
雪舟に多大な影響を
与えた師となります。
その傍らで、天章周文に
絵を学んだとされます。
どちらもその当時最高の
師を持ったことになります。
残念ながら周文の絵であると
確定出来るものがないことと
春林周藤の厳しい禅の修行のため
画を充分に学ぶだけの
時間はなかったのではないか?
ともいわれています。
確かな話ではないとはいえ
絵を学びたい一身で
必死に修行している雪舟の姿が
目に浮かぶようです。
[水墨画/雪舟]本物を求めて
当時の都の画風は
“中国画風”であって、
貴族達が好む繊細な
タッチの絵画です。
すでにマンネリ化していた画壇に
耐えられなくなった彼は
『本物の中国画を習得したい!!』
と切望するようになり
相国寺を離れることになります。
雪舟、34歳頃のことです。
[水墨画/雪舟]周防国へ都落ち
画壇に嫌気がさしたのと
師である春林周藤が
没したことなど
都落ちするきっかけは
定かではないようですが、
享徳3年(1454年)頃、
周防国に移り
守護大名大内氏の庇護を受け
画室 “雲谷庵” を構える
ことになります。
西の京と言われたほど
何百年も街づくりと
文化交流に力を注ぎ
繁栄を維持していた大内氏です。
中央画壇で最高の師について
学んだ雪舟を快く受け入れたに
違いありません。
『雪舟』と名乗ったのは
1465年、45歳頃
と考えられています。
[水墨画/雪舟]明国へ渡る
[水墨画/雪舟]渡航前後の都
1467年といえば
歴史上最も無意味な戦いとされる
応仁の乱勃発の年です。
足利将軍家の権力が落ちる一方で
8代将軍義政は、文化の力で
権威を示そうとしました。
奇しくも現在私たちが
図録などで目にする
中国名画の数々は
室町幕府歴代将軍の
(東山御物といわれる)
コレクションの一部なのです。
[水墨画/雪舟]応仁の乱の影響
この勃発の年とされる最中に
雪舟は大内氏の貿易船で
明へ約3年間渡航しています。
一方、大混乱の国内では
都が焼かれ火の海になり
その影響で、地方に京の文化が
拡散することになります。
都の壊滅的状態によって
地方文化を花開かせる
ことになるんですね。
中でも大内家は栄華を
極め、繁栄を続けて
いくこととなります。
一方雪舟も
絵の習得に対する執念と
都の画風に馴染めなかったのが
幸いしたのでしょうか?
中央画壇の地位を
離脱するという
無謀に近いような
凄い決断によって
日本に「雪舟」という
水墨画の大家が
生まれることになるんです。
雪舟の思いの強さが
強運を呼び寄せたのかも
しれませんね。
人生、何が幸いするか
わかりません。
[水墨画/雪舟]明国での学び
約3年間(2年間とも)
明国で本格的な水墨画を学びます。
当地では“浙派”と呼ばれる
画派が全盛でした。
雪舟が学びたかった
宋や元時代の絵画はすでに
明では古典とされていたほど
時代は進んでいました。
がっかりした当時の様子を
のちに弟子に語っています。
雪舟本人の思いとは
違ったものの浙派の
画風はもちろん見るものすべて、
特に「風景こそ最大の師」として
大陸の自然を貪欲に写し
習得して帰ったところは
雪舟の凄みを感じます。
その習得のすべてが
「四季山水図」に
表れているとされます。
まさに本場で学んだからこそ
都では得ることが出来なかった
ダイナミックな画風が
生まれることになります。
[水墨画/雪舟]明国から帰国
文明元年(1469年)、帰国。
帰国後のアトリエとしては
周防の雲谷庵が有名ですが、
豊後にも
天開図画楼てんがいとがろうと称して
アトリエを作り
住んだとされます。
この天開図画楼の所在地については
諸説あるようですが、
現在の大分市上野あたり
とされています。
3年間の明国での学習は
当地での高い評価もあり
彼にとって大きな
自信となりました。
「もはや明では学ぶ師がいない」
とまで言い切ってます。
[水墨画/雪舟]画聖となる
名作とされる数々の作品は
帰国後に生み出される
こととなります。
その画風は中国画の
模倣から脱して
日本独自の水墨画を
確立させるに至りました。
のちの絵師たちに与えた
影響は計り知れません。
日本で唯一、
“画聖”
と呼ばれるに至ったわけです。
[水墨画/雪舟]代表的作品
雪舟の作品のうちなんと6点もが
現在国宝に指定されています。
<国宝>
・秋冬山水図2幅
1969年(S44)に切手にもなってます。
・四季山水図巻(山水長巻)部分
・山水図(破墨山水図)
・慧可断臂図
・天橋立図
・山水図
<重要文化財>
・四季山水図
・四季山水図巻
・益田兼堯像
・四季花鳥図屏風 ほか
[水墨画/雪舟]雪舟様式継承
雪舟は多くの弟子を
輩出しています。
秋月等観
如水宗淵
等春
周徳 など
彼らが全国各地に
雪舟の画風を
広めていきました。
常陸国の画僧、雪村周継は
時代的に接点はないものの
雪舟に私淑して独学で
画業を完成させます。
狩野元信は雪舟が学んだ
浙派の水墨山水画だけでなく
花鳥画も本格的に受け継ぎ、
伝統的な大和絵との折衷を試みて、
きたる桃山時代の煌びやかな
金碧画の基盤を作っていきます。
また長谷川等伯は
「雪舟五代」を自称して
狩野派に独りで
立ち向かいました。
[水墨画/雪舟]筆様制作とは
雪舟の活躍した時代の
絵師たちは、今でいう
アーティストではありません。
あくまで依頼主(貴族等)の希望する
画風で描かなくてはなりません。
「筆様制作」とは
室町時代特有のもので、
中国の画家の作風に倣い
“夏珪様”“牧谿様”
などと図様を借りて
組み合わせたり
アレンジしたりして
依頼主の希望に則した
作品を制作することです。
雪舟の師であった周文らの
御用絵師たちは将軍所蔵の
中国画を学び、その要請に
答えていったのです。
雪舟もまた
・倣 夏珪 夏景山水図
・倣 梁楷 黄初平図
・倣 玉澗 山水図
など“〇〇様”を描いています。
[水墨画/雪舟]再発見作品
2017年に84年ぶりに発見された
作品があります。
『倣夏珪山水図』です。
“倣”という字が示している通り、
筆様制作の作品になります。
画の署名は“雪舟”になっています。
専門家によると、
〇〇風に描かれていても
かなり雪舟とわかるアレンジが
あるようです。
[水墨画/雪舟]破墨山水図
雪舟の作品の中で
「破墨山水図」という
作品があります。
これは技法的には
“破墨”ではなくて
“撥墨”の技法を使って
描かれているとされる
説もあります。
弟子の宗淵に与えた山水画で、
雪舟が明で、画僧玉澗から
学んだと自身の文にあります。
輪郭線を用いずに大量の墨を
はね散らかすように描き
濃淡やにじみをつけて
描く方法です。
[水墨画/雪舟]贋作出回る
江戸時代に入っても
雪舟は大変な人気だったようです。
特に狩野派にとって雪舟は
師と仰ぐ存在でした。
そのためか諸大名がこぞって
雪舟の作品を求めたのです。
大名家の床を飾る掛物として
最も相応しいという見方からです。
当然そうなると贋作が
出回るわけです。
その真贋を明らかにするために
古書画の目利きであった
狩野派の中興の祖、
探幽のところに沢山の
雪舟作品が持ち込まれた
ということです。
圧倒的に雪舟作品は少ない
はずなので、ほとんどが
贋作だったのでしょう。
それでも雪舟の絵の需要が
あまりに多いため、
それに答えるかの如く、
贋作専門の絵師もいたとか。
日本絵画の歴史の中で
やはり雪舟は別格のようですね。
[水墨画/雪舟]特別展
こちらの特別展はすでに終了しております。
京都国立博物館 平成知新館にて
特別展 雪舟伝説
―「画聖(カリスマ)」の誕生― 開催中
<前期>4/13(土)~5/6(月・休)
<後期>5/8(水)~5/26(日)
巡回なし!国宝6点すべて公開!
されるそうです。⇩⇩⇩
詳しくは京博HPをご覧ください。
京都国立博物館 特別展 雪舟伝説