【水墨画の歴史】謎の絵師、俵屋宗達|その独学の水墨画が面白い!

こんにちは
水墨画家のCHIKAです。

日本画や水墨画で
たびたび目にする技法が
あります。

たらしこみです。

その技法の完成者は
『風神雷神図屏風』で有名な
俵屋宗達です。

生涯子供の心を持ち続けた
であろう独学の絵師です。

今回は謎に包まれた
絵師の水墨画を
共に美を追求した
周辺の人々と共に
書いてみたいと思います。

【水墨画】琳派の系譜図

【水墨画】私淑の流派とは

桃山時代から江戸時代初期に
かけて始まったのが琳派です。

琳派とは

大和絵の一流派

私淑により断続的に
継承されてきた流派

と絵画史には書かれてます。

“琳派”という言葉は
ごくごく近代になってから、
尾形光琳の一字を取って
生まれた名称です。

宗達から光琳まで約百年、
光琳から酒井抱一まで約百年。

血縁関係もなければ
師弟関係もありません。

百年ごとに私淑で繋がり、
復興・大成・継承される
大変稀有な流派です。

近代になってからも
神坂雪佳他日本画家達が
琳派に傾倒し、絵画・工芸・
意匠・図案の世界で
継承しています。

その琳派の始まりを作ったのが
本阿弥光悦と俵屋宗達です。

【水墨画】歴史的背景

大阪城

それでは宗達の芸術作品が
次々と生み出された時代背景を
さらっと
眺めてみたいと思います。

光悦と宗達が活躍した時代は
江戸時代初期の京都です。

安土桃山と江戸時代の
入り混じった転換期です。

慶長八年(1603年)に
徳川家康が征夷大将軍に
任ぜられて江戸に幕府を開きます。

政治経済とも優位にあった
徳川家ですがまだまだ豊臣家
の勢力も大きく残っている
時代でした。

特に京の都では秀吉存命中に
天皇を尊重し朝廷の威信回復に
尽力していました。

秀吉自身の権威利用、
拡大がその目的です。

なにしろ応仁の乱以降、
京の町は手つかずの
荒れ放題になっていました。

朝廷にとっても秀吉は
救いの神でもあったのです。

そのような時代の流れの中で
天皇を中心に公家や上層の
町衆たちによって王朝文化の
復興がはかられていました。

上層階級の人々の調度は
必要以上の贅沢に傾いて
いきました。

その需要が益々高まる中で、
光悦・宗達芸術が求められ、
広まっていったのです。

【水墨画】宗達画業の流れ

宗達の画業は次のように
展開していきます。

<慶長年間~寛永年間>

料紙装飾(華麗に彩られた紙)

扇面画制作
(工房制作、水墨画作品も)

金碧障屏画(金箔画面の濃彩画)
水墨画

宗達は寛永初年頃までに
宮中から“法橋”の称号を
授与されています。

町絵師で授かることは
異例のことです。

すでに町絵師として著名であり、
宮中からも認められていたほどの
実力の持ち主だったという証しです。

それ以降の水墨作品には必ず、
“法橋宗達”の署名が
確認されています。

【水墨画】宗達画風のポイント

それまでの水墨画にはない
宗達独自のポイントとして
次のことを私見で
挙げてみたいと思います。

⑴大らかな町衆の気質
⑵構図、トリミングの妙
⑶伝統、技法よりも感性

【水墨画】⑴大らかな画風

日本では鎌倉、室町時代に
本場中国の水墨画を
熱心に学習してきました。

奥深い中国水墨画の真意まで
汲み取れなかったために、
水墨画の主題は中国から
渡ってきたそのままに、
『瀟湘八景』や『龍虎』
『道釈画』などが主流でした。

ところが宗達の墨絵には
水墨画のお決まりの形からくる
堅苦しさが微塵も感じられません。

それどころかとても
やさしく大らかで親しみやすい
墨絵に変化させているように
見受けられます。

画題も『枝豆図』や『犬図』など
ごくごく身近なものも
対象としています。

宗達の水墨画を
「影法師のようだ」と評したのは
近衛家煕(1667-1736)です。

自身も水墨画を好んで描いた
お公家様です。

宗達の場合は、
熱心に中国名画を学んで
体得したのではなさそうです。

牧谿画風にのみ共感して、
宗達自身の好みに合った
様式や技法のみを取り入れた、

と「日本水墨画全史」(小林忠著)
にはあります。

伝統も技法も取り入れは
するけれど縛られない
ところが町絵師の自由さ
感じます。

【水墨画】⑵構図、トリミングの妙

俵屋宗達は京の町で
絵屋“俵屋”を営んでいたと
推定されています。
俵屋とは屋号です。

絵屋とは室町時代末期頃から
江戸初期頃まで栄えた職業です。

主に町絵師たちが扇や着物、
屏風絵など広範囲に絵を描き、
販売していました。

【水墨画】特殊な画面

料紙にしても扇面にしても
限られた画面の中で
構図を工夫することになります。

それを意識して
宗達の作品を観ると
どの作品も画面に納めず、
はみ出した構図を取っています。

このトリミングのうまさは
特殊な画面だからこそ
生み出されたものなのでしょう。

【水墨画】古画からの引用

あるいは「牛図双幅」(墨画)
のように古画から引用して
全く違った宗達風に
創造しています。

北野天神絵巻/ウィキペディアより

宗達作品の中には
古画からの引用が
かなりあるようです。

古画と指摘されなければ
“宗達オリジナル”
と思えるほど、
その構図も余白も細心の
注意が払われているように
見受けられます。

【水墨画】⑶宗達の感性

宗達の活躍していた時代は、
戦後の復興と町衆の台頭です。

伝統や既存の技法を駆使
しながらもそれまでにはない
新しい画風を求めていた
時代です。

大和絵と水墨画の技法が
宗達の感性でマッチした
面白い例だと思います。

【水墨画】大和絵の技法

源氏物語絵巻 竹河/徳川美術館蔵 /ウィキメディアコモンズ

ここで宗達画風の土台となる
大和絵の技法を見てみたいと
思います。

『源氏物語絵巻』に代表される
伝統的彩色画を言います。

大和絵の代表的な技法には、
ぼかし、彫り塗、たらし込み、
があります。

【水墨画】ぼかしの技法

先に塗った絵具が乾かないうちに
水を含ませた筆や刷毛で
徐々に薄くしていく方法です。

【水墨画】彫り塗の技法

最初に引いた描線を
塗りつぶさずにその描線を
避けて彩色する技法です。

【水墨画】たらし込み技法

先に塗った絵具が乾かないうちに
別の絵具をその上から垂らして
にじませます。
偶然の調子を出す技法です。

【水墨画】宗達技法の特長

引用:ウィキペディアより 俵屋宗達《牛図》左幅一部

宗達は伝統的大和絵の
技法をどのように作風に
活かしていったのでしょうか?

たらしこみ技法とは
上記のとおりですが、
宗達はこれを墨絵にも
応用して完成させました。

墨で作った濃淡の
グラデーションの中に、
異なる濃度の墨を加えます。

宗達の時代はにじむ紙は
使われていません。
加工されたにじまない紙を
使っています。

[水墨画の技法]初心者のためのわかりやすい基本的な用語の解説


にじまない紙だからこその
偶然の混じり合いです。
ぼかしの技法です。

これによって立体感や動きを
表現しています。

宗達の代表作の一つ、
「牛図双幅」では
“彫り塗”で線描し、
その中に垂らし込んだ模様が
牛の筋肉や毛並みまで
表しています。

偶然のようできっちり
計算されているだろう
ところに凄みを感じます。

古い琳派を扱った美術資料本には
この「牛図双幅」の描法について
型を使ったのではないか
と書かれていたのを記憶してます。

染色の型染めのような
イメージでしょうか。

【水墨画】たらしこみ誕生説

画家は自身のオリジナリティを
確立するまで様々な学びに
挑んでいきます。

宗達の水墨画の特長は
何と言ってもたらしこみです。

その誕生と経緯は
さまざまに専門家の方々が
分析されています。

その中で今回は2説を
参考にさせていただきました。

【水墨画】『金銀泥絵』説

“金銀泥絵”の手法の改革にある

(参考本:日本水墨画全史 小林忠著)

宗達が水墨画でのたらしこみ
技法にたどり着くまでに、
金銀泥を使った作品を
沢山生み出しています。

そうした挑戦の中で、
金銀泥が紙の上で作り出す
“偶然の模様の美”に魅せられ、
墨絵の中でも挑戦していった
のではないか?

この説は専門家の中では
有力説だそうです。

確かに料紙装飾の作品を観ると
背景は煌びやかな金銀ですが、
モノクロームの墨絵作品を
観ているようでもあります。

蔦の細道図屏風左双/承天閣美術館蔵/ウィキペディア

【水墨画】『染色』説

また別の参考本では、
その着想が染色から
来ているのではないか?

いろいろなにじみの工夫から
生み出された工芸的な
手法ではないか
(参考本:「水墨画」矢代幸雄著)

と説かれていました。

染色の世界でもぼかしや
にじみは素晴らしい効果が
望める技法です。

常に工房作品としても
切磋琢磨していたところ
ではなかったか?と想像します。

【水墨画】宗達とはどんな人?

専門家の話によると、
これほど謎の絵師も珍しい
くらい足跡が辿れない
人物のようです。

宗達が歴史の表舞台に出る
きっかけとなるのが、
慶長7年(1602年)の
平家納経の修復事業です。

富裕な京の町衆出身であろう
とされています。

本阿弥光悦を始め、
富裕層との結びつき、
関りが目を引きます。

ある研究者の方の
話しを挙げたいと思います。
某テレビの特集番組でした。

根拠のない話と前置きされたうえで、
「とても身分の高い方のご落胤
ではないか・・・

まるで自分で自分の足跡を
消しているかのごとく・・・

皆が気付いているが、
誰もそのことに触れない存在・・・」

光悦はじめ富裕層との
交わりからも作品からも、
物怖じしない堂々とした大らかさ。

たぶん大いにあり得る!と
とても納得してしまいました。

【水墨画】光悦と宗達

蓮下絵和歌巻 部分 /東京国立博物館蔵/ウィキメディアコモンズより

宗達を見出したのは
本阿弥光悦です。

本阿弥家は代々、刀剣の研磨、
鑑定を生業とした名家でした。

鑑定にはあらゆる分野に
高い見識眼を必要とします。

光悦は家業を継ぐかたわら、
培った知識を元に諸芸に通じて
芸術創造への道を歩みます。

寛永の三筆の一人であり、
書の達人でした。

平家納経修復事業では
宗達を見出します。

今で言うアートディレクターか
名プロデューサー的
立ち場の人でもあったようです。

本阿弥光悦/ウィキペディアより

社交的で幅広い人脈もあり、
徳川家康にも一目置かれて
いたほどの人物です。

その後、料紙装飾で宗達との
コラボ作品を次々に世に出します。

煌びやかな装飾作品なのに、
傲慢さが少しも感じられない。

華美で大胆なのに
どこか控えめの美。

戦乱の世を潜り抜けた
町衆出身の二人にとっては、
個人的な名声や考えなどには
興味がなかったかもしれません。

【水墨画】『鶴図下絵和歌巻』

二人の関係を語るのに、
よく話題にされるのが、
料紙装飾作品の中でも
『鶴図下絵和歌巻』です。

宗達の下絵に光悦が書を
書いている全長13.56mもある
代表作品です。

鶴図下絵和歌巻/ウィキペディアより

まるでアニメーションを
観ているような画面展開です。

二人のコラボですが、
冒頭いきなり光悦が
歌人の名前を書き落としてます。

宗達の下絵に圧倒された
のでしょうか?

その後も何か所か
書き落としが見受けられます。

ということは?

二人で即興演奏のように
書いたかもしれません。

いや、

プロデューサー光悦が
宗達の名を上げるために
仕組んだ計画的書き落とし
ではないか?

という考えもあるようです。

それも大いに考えられそうですが、
個人的には断然、
即興演奏と思ってます。

下図の鶴を描いたあとに
光悦の書が上書きされ、
所によってはまたその上に
宗達の下絵の加筆がある。

であればきっと
感性溢れる二人が
語らい笑い合いながら、
流れるように描いていった
のではないか?

その情景が目に浮かぶからです。

【水墨画】身分を超えた文化交流

修学院離宮内の水田

宗達はとにかく謎の人なので、
落款から推定したとしても
工房作品かどうかが
問題になるようです。

宗達の活躍する少し前の時代には
長谷川等伯が琳派の先駆け的作品を
世に出しています。

等伯もまた絵屋を営んで
当時非常に流行していた図様、
“柳橋水車図”を等伯流に
工芸品として手掛けています。

【水墨画の歴史】下絵の名作?!『松林図屏風』を描いた長谷川等伯とは

絵屋では評判のよい図柄を使って
既製品を販売していました。

これによって調度品が
大量生産出来るようにも
なりました。

また王朝文化復興に力を注いだ
後水尾天皇は身分を超えた
文化サロンを主催します。

それによって町衆文化を
宮中に取り入れることも
積極的に行っていました。

天下泰平に向かっていく
過渡期に伝統と身分を超えた
感性の混じり合いが
確実にあった時代です。

江戸幕府の縛りが
まだまだ緩やかだったのも
文化芸術に幸いしていた
のかもしれません。

【水墨画】宗達落款について

絵画の真贋や研究のためには
落款印章はとても重要です。

【水墨画】落款の位置は大丈夫?作品の完成度をよりUPさせるために

【水墨画】水墨作品の落款

特に宗達は工房を主催
していたため工房作品
との使い分けがあります。

水墨画作品に限っては、

〇<伊年>朱文円印(初期のみ)

〇<対青>朱文円印に『法橋宗達』

〇<対青軒>朱文円印に『宗達法橋』

 

法橋位を授かる以前は
署名はしなかったと
考えられています。

さらに法橋の署名が
『法橋宗達』
『宗達法橋』の2種あること。

【水墨画】本人か?工房作か?

宗達自身か?
工房作品か?

明確になっていない作品が
多いようです。

現代人がこの時代の作品を
鑑賞する際にはどうしても
一人のアーティストとして
見てしまいがちです。

ところが江戸時代までは
どの絵画のジャンルも
工房制作が主です。

よく言われるのが、
漫画家の工房のようなものです。

工房を盛り立てるためにも
主催者のオリジナリティや
世間の評判は欠かせない。

それは違いなさそうです。

【水墨画】宗達水墨画作品と落款

<宗達水墨画の一部と落款印章>

  • 「蓮池水禽図」一幅 紙本墨画
    国宝/京都国立博物館蔵
    [伊年]朱文円印
  • 「雲龍図屏風」六曲一双
    紙本墨画淡彩/フリーア美術館蔵
    [対青]朱文円印に『法橋宗達』
  • 「龍図」一幅 紙本墨画
    東京国立博物館蔵
    [対青軒]朱文円印に『法橋宗達』
  • 「牛図双福」双幅 紙本墨画
    頂妙寺蔵
    [対青軒]朱文円印に『宗達法橋』
  • 「犬図」一幅 紙本墨画
    [対青軒]朱文円印に『宗達法橋』
  • 「枝豆図」一幅 紙本墨画
    個人蔵
    [対青軒]朱文円印に『宗達法橋』
  • 「墨梅図」一幅 紙本墨画
    細見美術館蔵
    [対青]朱文円印に『法橋宗達』

まとめ

いかがでしたか?

今回は京の都で始まった
煌びやかで雅な琳派の世界と
宗達水墨画の面白い融合を
私見を挟んで書いてみました。

まだまだ謎だらけのようですが、
時代背景と町絵師ならではの
学び方や表現が面白い!
と感じました。

「もっと自由に想像したら
ええんとちゃいますか」と
言われているような気がします。

今回もご訪問いただき
ありがとうございました。

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ABOUT US

はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。水墨画を独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and errorで実践中。“変化・継承する素晴らしさを自然から学びたい”思いで里山暮らしを体験中。野鳥好き・猫好き。アクリル画にも挑戦中。京都生まれ