【水墨画の歴史】下絵の名作?!『松林図屏風』を描いた長谷川等伯とは

こんにちは

水墨画家のCHIKAです。

この画をご存知ない方は
たぶんいらっしゃらないと思います。

『松林図屛風』

心象風景、はたまた
抒情的な日本の風景・・・

え! 余白が多すぎる?

今回はこの作品で
日本の水墨画が自立した!

と言われる長谷川等伯について
見ていきたいと思います。

【水墨画/等伯】国宝は下絵

『松林図屛風』左隻/東京国立博物館蔵/ウィキペディアより

「松林図屏風」六曲一双 紙本墨画
国宝/東京国立博物館蔵
各縦156.8 横356.0

制作年代は未詳となってますが、
描かれたのは1593~1595年頃。
等伯50歳代と推定されています。

跡継ぎとなる最愛の息子の
久蔵を亡くしたことで
悲しみの極致の中、自分のために
描いたとも言われています。

等伯の生まれ故郷である
能登海浜の松林の景色でしょうか。
はたまた心象風景のようです。

【水墨画/等伯】ズームで鑑賞

<zoom out>

松林と薄っすら雪山だけが
描かれています。

寒々としてあたり一面
濃い霧が立ち込めています。

重たく湿った霧の中から時折、
松の木々が現れたり隠れたり。

墨の濃淡と筆勢だけで遠近と、
形に出来ない湿潤な空気感
を表現しています。

見れば見るほど
絶妙な構図です。
無限の広がりを感じます。

そのままじっと見つめていると
余白が余白でなくなり、
空気が動き、こちらにまで
濃霧が迫ってくるようです。

そのままふらふらと
画面の中に引き込まれそうです。

<zoom in>

近寄ると
松の木々は荒々しい筆致で
描かれています。

松の生命力を感じさせます。

藁筆を使ったとか膠で
カチカチになった筆を使ったとか
言われています。

また松の根元あたりに
墨だまりがあることから、
紙を立てて描いたのではないか?
と仮説を立てた専門家もいます。

【水墨画/等伯】魂の画

室町時代の大和絵や
阿弥派の漢画を学び、

中国宋元画の古典、とりわけ
牧谿(中国南宋末~元初の画僧)
私淑して水墨画を学んでいたため、
その影響が見られるようです。

けれどそこに『学びました』という
経過的なものも作為なども
全く感じさせずに一気呵成に
描いています。

完全に自分のものにして
表現している凄みを
感じさせる画です。

それゆえこの完ぺきな
実物大の完成図的下絵は
「日本の水墨画の自立」
「叙情的日本の水墨画誕生」
とも言われているのです。

それにしても
下絵とは!!驚きです。
よく残してくれたものです。

“残すべき魂の画”と感じた
弟子なのでしょうか?
後継者なのでしょうか?

やはりこの画は日本人なら
誰もが持っている心の故郷
のような存在かもしれません。

【水墨画/等伯】下絵の謎

『松林図屏風』右隻/東京国立博物館蔵/ウィキペディア

この作品が知られるようになったのは
昭和7年(1932年)とされています。

謎はいくつもあるようです。

◎屏風絵にしては異例の薄さの紙
◎最高級の墨を使っている
◎屏風絵鑑賞を意識した工夫がある
◎紙継ぎの跡の不自然さ
◎障壁画として構想されたのではないか
◎落款は後に押されたもの

絵画は所有者によって
形を変えていくものでもあります。

複雑な歴史を背負いながらも
今日まで生き残っているのは
等伯を支えた人々の
願いだったかもしれません。

【水墨画/等伯】世の中は下剋上

長谷川等伯の生まれ育った時代とは
どのような時代だったでしょうか?

相次ぐ戦乱で世は乱れ、
やがて現れる最強の統治者を
待つばかりの下剋上でした。

応仁の乱(1467~1477)以降、
室町幕府は凋落の一途を辿り、
15代将軍足利義昭が信長によって
追放されて1573年幕府は崩壊します。

その頃の七尾はというと、
1408年~1577年までの169年間、
能登を治めた畠山氏
七尾城という日本屈指の山城と
その城下町を整備して
政治、経済、文化の拠点都市
を作ったとされています。

京文化との交流往来もあり
京風の「畠山文化」が花開いて
いたようです。

【水墨画/等伯】美術の流れ

漁村夕照図 牧谿 (国宝 根津美術館蔵)/ウィキペディアより

では下剋上の中での美術の流れ、
とりわけ等伯が学んだ水墨画は
どうだったのでしょうか?

【水墨画/等伯】中央画壇

日本の水墨画に多大な影響を
与えたとされる牧谿
すでに鎌倉時代後期の
日本人留学僧によって
国内にもたらされていました。

その後足利幕府によって禅宗が
庇護され、この牧谿の作品も
3代将軍義満の収集品の
一部となります。

さらに日明貿易によって
多くの質の良い南宋絵画が
輸入されます。

応仁の乱のきっかけを作った
8代将軍義政は文化面では
大きな足跡を残します。

歴代足利将軍に仕えた
阿弥派は水墨画の名手となり、
狩野派の祖である正信も
御用絵師として活躍。

将軍家の唐物収集のおかげで
日本の水墨画が育っていったのです。

【水墨画/等伯】地方へ伝播

いっぽう応仁の乱を避けて
地方に流れていった文化は
有力大名の庇護を受け、
その地で花開いていきました。

中でも明国帰りの雪舟
当地で浙派様式を学び、
水墨画の巨匠として
多くの弟子を輩出しました。

その流れは弟子たちによって
全国各地に広まり等伯はもちろん
同時代の絵師たちは自らを
正統な継承者、後継者として
伝えていきます。

【水墨画の歴史】涙でネズミを描いた<雪舟>/画聖の生涯と作品をご紹介

江戸時代初期には
狩野派の棟梁探幽も
雪舟様式を取り入れて
新たな画風を打ち立てていきます。

【水墨画/等伯】能登時代

七尾城跡本丸からの七尾市街と能登島

ここからは等伯自身の歴史を
見ていきたいと思います。

天文8年(1539年)生~
慶長15年(1610年)没

生まれは能登国七尾
現在の石川県七尾市

戦国大名の家臣の子として
生を受けますが幼くして
染物屋の長谷川家のもとに
養子に出されます。

幼い等伯が画の道に進む
きっかけを作ったのは
この長谷川家の存在が
ありました。

養父や養祖父から画の
手ほどきを受けます。

信春と名乗って日蓮宗関係の
仏画や肖像画を描き始め、
法華宗信仰者の多く住む
京都にも何度か足を運んで
さらに画の技術等を
学んだとされています。

【水墨画/等伯】京都~堺時代

狩野内膳作『南蛮人渡来図』(右隻)神戸市立博物館所蔵/ウィキペディアより

等伯33歳の頃(1571年)
養父母が亡くなったことを機に
京に移り住むことを決意し、
妻と息子を連れて上洛します。

【水墨画/等伯】京へ

この頃の中央画壇は
時の権力者の象徴的建造物の
内部を一手に引き受けて華麗に
彩った絵師集団がいました。

狩野永徳率いる狩野派です。

当初等伯は狩野派の門人
となります。がすぐに
辞めてしまったようです。

その後は京都上京区の
日蓮宗本山本法寺に寄宿します。

特に第10世日通上人とは
最も親交が長く上人自身が
堺出身であったこともあり、
たびたび京と堺を往復します。

【水墨画/等伯】京と堺

堺では彼自身の信仰心を深め
堺の文人や豪商たちとの
親交の中で絵師としての
修行を積んでいったとされます。

そこで千利休との接点も
生まれたのでしょう。

嘘か誠か千利休は当時の
中央画壇を牛耳っていた
狩野派を好ましく思ってい
ませんでした。

等伯は利休との交わりの中で
次第に狩野派を脅かす存在と
なっていったのです。

【水墨画/等伯】好機到来

後ろ盾を得た等伯は、
1589年(天正17年)に大徳寺に
天井と柱の装飾画を描く好機を
利休から与えられます。

その同じ年に大徳寺の
塔頭のひとつ三玄院に
『山水図襖』(重要文化財)
描いています。

これには面白いエピソードが
残されています。

かねてから親交があった
住職の春屋宗園に襖絵を
描きたいと願い出ていました。

ところが宗園に断られ、
ある日宗園が留守の間に
等伯は勝手に襖に絵を描いて
しまったのです。

帰ってきた住職は激怒しましたが、
あまりの素晴らしい出来栄え
だったのでそのまま襖絵は
残ったということです。

雲母摺りの桐花紋を牡丹雪に
見立てて描かれた山水図です。

現在この襖絵は高台寺の塔頭、
圓徳院にて鑑賞可能です。
(高精細複製品として)

1590年(天正18年)には
京都御所造営の際の
障壁画制作を狩野派と争います。

狩野永徳は嫡子と共に
「はなはだ迷惑」と宮中に
訴えたと史実にあります。

永徳が等伯の実力、勢いを
かなり脅威と感じていた
証しでもあります。

一介の絵師を狩野派のような
押しも押されぬ大絵師集団が?!

とまるでフィクションのような
お話しに感じますが、
等伯自身の実力もさることながら、
等伯の後ろ盾の面々の力も
狩野派にしてみれば
脅威だったかもしれません。

【水墨画/等伯】波乱の絵師時代

京に出てから順調に
絵師としての実力も人気も
積み上げてきましたが、
度重なる永徳との確執の中で
不幸が襲います。

【水墨画/等伯】代償の大きさ

絵師としての実力を付けてきた
息子の久蔵と共に長谷川派を
興そうと夢見ていた矢先でした。

永徳の急死、そして秀吉の
嫡男鶴松の菩提寺である
祥雲寺(現智積院)の
金壁障壁画の成功、

これで長谷川派は狩野派と
並び立つ存在になるはずでした。

ところが大きな後ろ盾でも
あったであろう利休の切腹。

そして跡継ぎと見込んでいた
久蔵の急死。

これには頭首を失った
狩野派が仕組んだ毒殺説も
あるようですが
真実は歴史の闇の中。

等伯の嘆き悲しみを
日通上人の言葉が癒します。

「人はいずれ死ぬもの。
早いか遅いかそれだけのこと。
目の前のやるべきことに
打ち込むことが一番の供養」

それ以降再び画業に専念していきます。

【水墨画/等伯】雪舟五代

本法寺に寄進された
『涅槃図』以降“雪舟五代”
落款に冠して雪舟の正当な
継承者であると公に宣言しました。

この『涅槃図』(重文)は
高さ10m横6mという大作です。

絵の裏には、日蓮と祖師たちの名、
本法寺開山の日親以下日通までの
歴代住職、さらに養祖父母や養父母、
若死した久蔵たち等伯一族の名が
記されている。等伯の篤い信仰と
一族への深い祈りが込められた
作品といえよう。
引用:ウィキペディア

これが功を奏して次々と
制作依頼が舞い込み、
慶長9年(1604)には法橋に
慶長10年(1605)には法眼に
叙せられます。

一介の町絵師から京の有力者と
なっていきました。

【水墨画/等伯】最晩年

70歳を過ぎた等伯。
時はすでに徳川の時代。

高僧の肖像画を描いたり
筆を取り続けました。

慶長15年(1610年)
徳川家康から江戸へ
招きを受けましたが
江戸の地を踏んですぐ
病死しています。

72歳の生涯でした。

【水墨画/等伯】等伯画説

『等伯画説』
京都本法寺蔵/重要文化財

画論としては日本で最古のもの。

等伯と親交の厚かった
本法寺十世住職、日通が
等伯自ら語った芸術論を
筆録したものです。

【水墨画/等伯】武士の血

安部龍太郎著『等伯』
2012年直木賞受賞作品

作家 安部龍太郎氏の
『等伯』を読むまでは、
美術史の中での等伯しか
認識がありませんでした。

天下の狩野派を相手に
一介の絵師が挑むなんて!

しかも本当に狩野派と
対等な地位にまで
昇り詰めるなんて!!

いったいどんな絵師
だったのだろう?

作品を読んで
すぐに納得いったのは、
等伯の中には抗えぬ
武士の血が流れていたのだ
ということでした。

世は下剋上。

等伯は押さえきれない
武士の血を感じながら
天下一の絵師になって

絵の世界で下剋上を
やってのけた人

だったということですね。

天下一の絵師にはなった
けれどその代償は
あまりにも大きく、
最愛の後継者まで
失うことになります。

時の権力者同様、
たった一代で興し一代で
没してしまう結果を
招いてしまいます。

絵師の側から戦国時代の
権力者や周辺社会を
見ている視点に
引き込まれてしまいます。

【水墨画/等伯】消された等伯

豊臣政権が滅亡した後、
狩野派の大部分が江戸に
活動拠点を移します。

中でも永徳の孫の狩野探幽
「永徳の再来」と評されて
弱冠16歳で幕府の
御用絵師になります。

引用:狩野探幽像(伝桃田柳栄筆)京都国立博物館 ウィキペディアより

押しも押されぬ狩野派の
トップである探幽が、ある屏風に
“周文の真筆である”と
鑑定をします。

ところが最近の研究によって
それは等伯筆によることが
明らかになりました。

等伯の印が消されていたのです。

等伯の存在自体を消そう
としたのでしょうか?!

狩野派としては等伯との
対決など無かったことに
したいのは当然かもしれませんが、
末代まで恐ろしい執着を
生むものだとドキッと
させられました。

【水墨画/等伯】琳派の先駆け?

宇治橋(京都)

等伯の代表作に
「柳橋水車図」があります。

室町時代からあるこの図柄は
桃山時代には各流派によって
描かれたようですが、
とりわけ長谷川派の格好の
画題となったようです。

この金地に着色画を鑑賞
していると後の琳派の絵師たちが
手本としていたかもしれない、
と想像出来そうな図柄です。

琳派は血脈ではなく
私淑で繋がっている派です。

長谷川派は絶えてしまいましたが
その時代に合った画風は
琳派の絵師たちに受け継がれて
いったのかもしれません。

等伯の画風は時代の
先端をいっていたことに
なります。

安部龍太郎著の『等伯』下巻には
次のようなくだりがあります。

真にそれぞれの様を
写し取ろうとすればするほど、
花も葉も図案化していくのである。
目に見えるものを精密に
写し取るよりも、花や葉の持つ
本性を象徴的に描いた方が
より本物らしく見える”
引用:『等伯』下巻/安部龍太郎著より

ちなみに等伯が寄宿していた
本法寺は琳派の祖とされる
本阿弥光悦とも深い縁のある
日蓮宗寺院です。

京都の小川通り沿いにあり、
文化人と関係が深い寺院として
知られているようです。

【水墨画/等伯】主な作品

『日堯上人像』(1572)
重要文化財/本法寺蔵

大徳寺山門天井画・柱絵(1589)
重要文化財/大徳寺蔵

旧三玄院襖絵(山水図襖)(1589)
重要文化財/高台寺園徳院蔵

旧祥雲寺障壁画(楓図・他)
国宝(1592頃)/智積院蔵

『利休居士像』(1595)
重要文化財/不審庵蔵

『枯木猿猴図』(16世紀)
重要文化財/妙心寺 龍泉庵
(京都国立博物館 委託)

『松林図屏風』(16世紀)
国宝/東京国立博物館蔵

『仏涅槃図』(1599)
重要文化財/本法寺蔵

【水墨画/等伯】2024年展示予定

📝
東京国立博物館では
国宝『松林図屏風』を
毎年1月に展示されています。

本館2室
2024年1月2日㈫~2024年1月14日㈰

東京国立博物館/国宝 松林図屛風

日程等、ご確認の上、足をお運びください。

まとめ(感想)

戦国時代の絵師、
長谷川等伯はいかがでしたか?

絵の世界で下剋上をやってみせた
稀に見る絵師のお話しでした。

地道な努力と
抑えきれない探求心と
チャンスを自ら掴み取る
激しく一途な画道への執念と
そして信仰心と

名もない画家としては
そのどれもが欲しい!
と思いました。(笑)

その代償はあまりにも
大きかったようですが、
等伯の人柄と飽くなき
探求心が周囲を動かし、
成就へと導いたことは
間違いなさそうです。

今回もお付き合いいただき
ありがとうございました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

ABOUT US

はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。水墨画を独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and errorで実践中。“変化・継承する素晴らしさを自然から学びたい”思いで里山暮らしを体験中。野鳥好き・猫好き。アクリル画にも挑戦中。京都生まれ