【水墨画の歴史】伊藤若冲は水墨画も凄い!独学絵師脅威の表現法

石峰寺

こんにちは
水墨画家のCHIKAです。

江戸時代の“奇想の絵師”たちを
ご存知ですか?

岩佐又兵衛、曽我蕭白
狩野山雪、鈴木其一等々

1970年に辻惟雄氏が
『奇想の系譜』を出版され、
世に再評価を促した
個性豊かな絵師たちです。

その中に伊藤若冲がいます。

あの鶏の絵師です。

極彩色の細密画を
描いたかと思うと、
対照的に白と黒の表現に
こだわりを持って挑戦しています。

今回は若冲という
独学の天才絵師について
水墨画を中心に
書いてみたいと思います。

【水墨画の歴史】若冲の水墨画

三十六歌仙図屏風/デンバー美術館 ウィキペディアより

若冲の代表作である
「動植綵絵」は緻密で
極彩色の作品でした。

若冲にしか描けない
草木国土悉皆成仏”の世界です。

それに引きかえ
若冲の水墨画は
とてもユニークで
大胆で動きがあります。

大胆な省略
構図の面白さ etc

対象物の特徴を捉え、
水墨画ならではの
迷いない筆の運びで
描き切っています。

水墨画は本来ならば
山水画のことを指し、
墨のグラデーションを
活かして線と面を描きます。

ところが若冲の場合は、
気にしていません(笑)
墨の濃淡も極端に黒と白を
表現している画が多いです。

これまた若冲にしか描けない
特異な即興の世界が
広がっています。

そして若冲が常に
心掛けていたことは

“神気”を掴むこと

つまり対象物のエネルギーを
捉えることが出来れば
どんなものでも描ける。

と言って古画の模写を止め、
生き物を見つめ続けたのです。

【水墨画の歴史】筋目書き

若冲はある特殊な
技法を使って水墨画を
描いています。

中国の紙“宣紙”の特徴である
滲みを活かした描き方で
とてもユニークです。

筋目書き  です。

若冲作品の最大の特長です。

引用:日本水墨画全史/小林忠著

・・・・・
要するに花の花弁や鳥の羽根、
魚の鱗など、層をなして
重なる部分に明瞭な墨線を用いず、
墨の面と面とがぶつかり合う
境に残った白い筋を、大和絵の
掘塗にも似た消極的な線として
用いたものである。
筆を巡らせているときは
判然としないが、乾くにつれて
形態の細部がくっきりと浮かんでくる。

若冲は席画(即興画)で
この筋目書きを披露して
席中の人々を驚かして
いたようです。

このように周囲を
アッと言わせる
パフォーマンスアートで
サービス精神旺盛なのが
江戸の絵師たちであったと
小林氏は語っています。

若冲の筋目書きを多用した
作品を鑑賞すると、
同じ筋目書きでも
動植物の特徴を上手く
捉えて描き分けて
いるのがわかります。

例えば菊花を観ると
花弁の中心近くは
素早く描いて筋目を
小さく表現し、
外側にいくほど
ゆっくりしたタッチで
筋目を太く表現したり。

鶏であれば
筋目書きでそれぞれの
羽根を見事に
描き分けています。

水墨画は滲みが特長ですが、
その濃淡などの表現や効果が
乾いたあとでないと
分からないものなので、
初めて観た人にとっては
目の前でのパフォーマンスに
さぞ驚いたことでしょう。

すべて計算のうえで、
感覚的に手が動くまで
表現を極めたのか?

若冲自身も面白いように
筆を動かして紙の仕業を
楽しんだのかもしれません。

【水墨画の歴史】邪道?

しかし、この“筋目書き”

若冲の後にも先にも
このような描き方をした
画家はいません。

どの技法書にも書かれていない
若冲オリジナルの技法なのです。

かねてより不思議に
思っていたことなのですが、
例えば琳派の“たらし込み”は
ジャンルを問わず、
さまざまな画家が
現代に至るまで
その表現に挑戦しています。

なぜ“筋目描き”は
誰も継承することが
なかったのでしょうか?

ハッキリした解答の文章等に
まだ出会っていないのですが、
今日では評価されている描き方も
当時は邪道とされた
方法でもあったようです。

それまでの日本の紙は
原料としては楮紙が中心で、
しかも滲まないように
加工して紙を使っていました。

逆に若冲は加工しない
“生紙きしを使うことで
紙の特長そのままを
表現に活かしていたのです。

若冲が使った宣紙は
中国で漉かれた紙で、
当時でも使える絵師は
ごく限られて珍しかった
のではないでしょうか。

この紙に出会って
逸る気持ちを抑えながら
描き味を試してみた時の
若冲を想像してしまいます。

既存の画道に反していたとしても
自分の個性を発揮出来る
画材に巡り合った喜びは
画家冥利に尽きますね。

このような大胆な
描き方が出来たのも、
ほとんど独学であったことと、
それを後押しする
様々な力があったからこその
オリジナリティだったのです。

【水墨画の歴史】若冲の水墨作品

象と鯨図屏風 伊藤若冲筆/ウィキメディアコモンズより

若冲水墨画の主な作品です。

  • 『菊花図』(墨菊図)デンバー美術館
    紙本墨画 一幅
  • 『鶏図押絵貼屏風』細見美術館
    紙本墨画 六曲一双
  • 『双鶴・霊亀図』MIHO MUSEUM
    紙本墨画 二幅
  • 『象と鯨図屏風』MIHO MUSEUM
    紙本墨画 六曲一双
    80歳頃の作品
  • 『蓮池図』大阪・西福寺
    紙本墨画 襖絵
  • 『果蔬涅槃図』京都国立博物館
    紙本墨画 一幅
  • 『蝦蟇河豚相撲図』京都国立博物館
    紙本墨画 一幅
  • 『花鳥図押絵貼屏風』細見美術館
    紙本墨画 六曲一双
  • 『鼠婚礼図』細見美術館
    紙本墨画 一幅
  • 『虎図』石峰寺
    紙本墨画 一幅
  • 『仔犬に箒図』細見美術館
    紙本墨画 一幅
  • 『寿老人・孔雀・菊図』 千葉市美術館
    紙本墨画 三幅
  • 『竹図』『葡萄小禽図』
    『月夜芭蕉図』『松鶴図』
    鹿苑寺書院障壁画       他

【水墨画の歴史】若冲の作風

象と鯨図屏風 /ウィキメディアコモンズより

若冲ほど特異な画家は
いなかったのではないでしょうか?

生活のためでもなく
名誉のためでもなく

学問も嫌い、
人付き合いも苦手、
商売もヘタ
ただただ画を描くことが大好き!

画を描くことにしか興味を示さず
それを貫き生涯を捧げました。

最初は宋元明時代の
古画を模写し続け、
古法に通ずるまでに
なりました。

次にそれには飽き足らず、
庭に鶏を放し飼い、
観察し続け写生に努めました。

しかしその写生も
「誰にもそのように見える」
という描き方を良しと
しなかったようなのです。

例えば鹿苑寺書院の『竹図』、

どのように見れば
若冲が表現した竹に
見えるのだろう?
と首を傾げてしまうのですが・・・

若冲にとっては
ありきたりの描法や画法では
到底満足出来ないもので
あったのです。

若冲というフィルターを
通してでないと生まれ得ない
ものに変化させて表現する。

それは時に奇抜に
時に目から鱗の画期的な
表現方法でした。

ただし、若冲の神業とも
譬えられる画にも
偏りはあります。

圧倒的に冴えを見せるのは
やはり動植物の画題で、
肖像画他では出来栄えは
落ちると評価されています。

何でも熟さなければならない
お抱え絵師とは違い、
このあたりは“町絵師”
ならではの若冲の画風に
親しみを感じますね。

徹底的に描きたいものを
極めたい!

その自由な作風から
若冲の心の声が
聞こえてきそうです。

【水墨画の歴史】時代背景


それではこの特異な絵師が
生まれ育った時代って
どんな時代だったのでしょう?

作風に影響を与えたものが
あるのでしょうか?

若冲の生きた時代を
視てみることにしましょう。

【水墨画の歴史】天下泰平のあと

幕府(1603年)が開かれて
100年も過ぎない間に
世の中は天下泰平に
なっていました。

経済成長を背景に、
幅広い階層の間で
未曾有の文化発展を
遂げていきました。

そんな元禄バブルの
浮かれた世の中も
そう長くは続きません。

赤穂浪士討ち入り(1702年)
の出来事を境に
1700年代に入ると
それまでのツケが回ったように、
江戸の庶民は倹約、増税、
奢侈禁止等々で幕府の
財政立て直しに付き合わされる
ことになるのです。

【水墨画の歴史】中国文化ブーム

黄檗山万福寺/京都宇治

日本が未曾有の
経済発展を遂げていたころ、
中国では明が滅び(1644年)
清王朝の時代を迎えます。

その混乱を避けて
隠元他の高僧らが
日本へ亡命して
禅(黄檗宗)を伝えます。

それまで慣れ親しんできた
日本化した禅宗とは異なり、
異国情緒に満ちた建築様式で
寺院が建てられました。

煌びやかな中国風の仏像が安置され、
その堂内では中国語により
読経がされていました。

江戸の幅広い階層の人々は
カルチャーショックを受けて
後水尾天皇はじめ、
帰依する人々が増えました。

黄檗宗は禅を広めただけ
ではありません。

それまでの歴史の中でも
寺院という存在は
常に異国の最先端の医術や
文化等々を運んで広めていく
存在でもありました。

この時代も同様、
文人画や煎茶など
明清の新しい文化を
運んできました。

若冲も熱心な仏教徒で
ありましたから、
黄檗宗とも深い
関りがありました。

【水墨画の歴史】博物学ブーム

不忍池図/小田野直武

明の李時珍著『本草綱目』が
伝来してからというもの、
日本では博物学ブーム
なり、多くの資料と共に
より発展していきます。

将軍吉宗も薬草や物産の
輸入を減らす目的で、
朝鮮人参などの国産開発に
力を入れていました。

【水墨画の歴史】若冲と蒹葭堂


また市中では海外から来た
珍獣の見世物が流行ったり、
珍しいものをコレクションする
収集家もいました。

コレクターの中でも
若冲に関わりのある当代一流人に
木村蒹葭堂(1736~1802)がいます。

大阪の造り酒屋のボンボンですが、
博物学も極める一流の趣味人で、
収集したコレクションを
常に公開したり
貸し出したりしたため、
彼の周りには多くの
知識人たちが集まってきました。

円山応挙はじめこの時代に
活躍した絵師たちも同様で、
吸い寄せられるように
蒹葭堂のサロンに通ったのでしょう。

若冲の動植綵絵に描かれていた
貝殻、オウムや孔雀や象、虎
などなどの珍獣も
このコレクションとの出会いから
生み出されただろうと想像出来ます。

【水墨画の歴史】日本画壇への影響


1731~1733年には
清朝に仕えていた宮廷画家、
沈南蘋しんなんぴん  が、
将軍徳川吉宗の招聘を受けて
来日しました。

沈南蘋のリアルで精緻、
濃厚で華麗な色彩画は
日本画壇に
新風を吹き込みました。

絵師たちはそれまで
幅を利かせていた
狩野派や土佐派の
伝統的スタイルに
きっと食傷気味
だったのでしょう。

18世紀の日本画壇は
まさに“江戸ルネサンス”と
言われるほど様々な
画派が現れていました。

その中でも後の世に
大家と称される
円山応挙、与謝蕪村、
渡辺崋山、司馬江漢ら、
写生画、洋風画、文人画など

広範な画家たちが
沈南蘋に強い影響を受けて
貪欲に研究を重ねて
新たな画風を作り上げて
いきました。

文化が花開く時代というのは、
決して世の中が安定している
とは限らないようです。

「世紀末の混沌とした時代に
文化が栄える」

といった文章を読んだ
記憶があります。
この時代もそうだったのでしょうか?

【水墨画の歴史】天災人災


若冲の産まれた1716年は
徳川吉宗が将軍職に就き、
享保の改革を始めた年です。

1732年には享保の大飢饉
1787年  天明の大飢饉(全国)
1788年  天明の大火 (京)

若冲の生きた時代は
幕府財政危機脱却の為の
度重なる改革と
異常気象による大飢饉に
見舞われた時代でもありました。

天明の大火に至っては
京の人々のほとんどが
焼け出されるほどの
大打撃を与えるものでした。

晩年の若冲もその一人でした。

【水墨画の歴史】伊藤若冲とは

布袋図/若冲筆

若冲の生きた時代が
少し見えてきたでしょうか?

背景が少し長くなりましたね。

それでもこの時代の
流れがあったからこその
奇想の画家たちの出現です。

それではここからは
若冲ひとりにスポットを当てて
見ていきましょう。

【水墨画の歴史】若冲の生い立ち

伊藤若冲(1716~1800)

京・錦小路にあった
青物問屋『桝源』の
長男として生を受けます。

問屋の仕事は小売りではなく、
多数の商人たちに
場所を提供して
その場所代を取ることで
十分な利益を得ていた
ということです。

若冲も何不自由なく
画に没頭出来る環境に
あったわけです。

ところが
数え年23歳のときに
父が亡くなり、
4代目桝屋源左衛門として
家督を継ぐことになりました。

この頃の京は
「文化に遊んで文化を支える」
旦那衆と呼ばれる人々がいて、
能・謡・浄瑠璃等の
伝統芸能を嗜むことが必須でした。

商売人イコール文化人
として都の文化を
守っていく立場でも
あったのですが・・・

画を描くこと以外に
全く興味を示さず、
しかも人付き合いの悪い
若冲にとっては、
なかなか辛い仕事だった
ことでしょう。

【水墨画の歴史】若き若冲の隠居


1755年、40歳で家督を
次弟の宗巌(白歳)に譲ります。

現代では40歳という年齢は
これから油がのってくる頃ですが、
当時はもう初老の域です。

もともと商売には
不向きだと悟っていた若冲は、
隠居して画に集中する
ことになります。

【水墨画の歴史】絵師としての仕事

金刀比羅宮参道

1758年(42歳)頃に
動植綵絵を描き始めます。

1759年(43歳)には
相国寺の塔頭である
鹿苑寺(金閣寺)の
大書院障壁画を制作

1764年(48歳)には
金刀比羅宮の
奥書院襖絵を制作

1765年(49歳)は
動植綵絵27幅
相国寺に寄進します。

1770年(54歳)
動植彩絵の寄進完了 全30幅

動植綵絵を描いていた
同時期頃(1767年)に
“木版画”にも挑戦しています。

乗興舟」他、
拓本を作る時のように
正面摺りの手法を使って
作り上げています。

このように視ていくと
ほとんど独学で始めたにも
かかわらず、最初から
華々しい絵師としての
活動に目を見張ります。

それはある高僧が
若冲に深く関わって
支援したからに他なりません。

【水墨画の歴史】大典との出会い

相国寺/京都

大典顕常(1719-1801)は
東近江出身の禅僧です。

大典顕常/谷文晁筆

1779年には相国寺113代館長
となりました。

漢詩をよく嗜み
生涯70冊以上の著書を出し、
煎茶を広めるために
尽力されてもいます。

またこの時代活躍していた
絵師や文化人達の
よき理解者であり
支援者でもありました。

池大雅や円山応挙も
大典を慕っていたと
言われています。

中でも若冲との関係は
かなり濃いもので
あったようです。

青物問屋の当主で
あるにもかかわらず、
絵師としての成長を願って
書や絵画の指導を受けるべく
大典のもとへ通ったと
相国寺に伝わっているそうです。

大典も生涯を通じて若冲の
良き理解者であったようです。

【水墨画の歴史】売茶翁との出会い


もう一人、若冲誕生に
大きな影響を与えた人物がいます。

売茶翁です。

【水墨画の歴史】売茶翁とは

売茶翁は黄檗宗の僧。
煎茶の中興の祖でもあります。

60歳を過ぎたころから
自ら茶道具を担ぎ、
京の大通りに簡易な
茶席を設けては茶を売ります。

客人と人の在り方や
世俗の汚さなどの
問答を講じる中で、
自らも茶を売ることで
行をし続けようとしました。

売茶翁と若冲とでは
その年の差40歳以上。

引き合わせたのは
大典ではないかと
言われています。

茶を介して3人が出会い、
文化人達との接触の中で
それぞれの修行に
邁進していくことになります。

【水墨画の歴史】売茶翁の賛

売茶翁が80歳を過ぎて
若冲の『動植綵絵』を観た時、
書を贈っています。

「丹青活手妙通神」
たんせいかっしゅのみようかみにつうず

“若冲の才能は神業である”

褒められた若冲は
この七文字を印章に彫って、
自らの励みにしたとされます。

もちろん『動植綵絵』にも
押印されています。

売茶翁は若冲の画に
たびたび賛を寄せています。

賛とは画賛のことで、
余白に画にまつわる詩や禅語、
画を褒めたたえる語を
書き添えることです。

賛も作品の一部と見なされます。

【水墨画の歴史】売茶翁像

売茶翁/若冲筆

若冲の作品に
人物画はほとんどありません。

それなのに売茶翁の肖像画は
度々描いていたようです。

売茶翁に対する
若冲の敬愛からでしょうか。

【水墨画の歴史】若冲居士


「大盈(たいえい)は
沖(むな)しきが若(ごと)きも
其の用は窮(きわま)らず」

本当に充ちたりているものは、
中が空虚に見えるが、
その働きは尽きることはない

言葉の出典は
「老子」にあります。

大典はこの老子の言葉を
売茶翁の茶道具に記しました。
現在でも相国寺に
残されているそうです。

「若冲」の名前は
これが由来ではないかと
言われています。

1752年、大典との親交の中で
居士名を与えられています。

若冲の落款には
“若冲居士”とあります。

この居士というのは
出家をせずに在家で修行をする
仏教の信者のことを言います。

【水墨画の歴史】作画三昧?


隠居後の若冲は
作画三昧の日々を送っていたと
いうのが今までの定説でした。

1770年に動植彩絵の全30幅を
寄進完了させた翌年、

1771年には桝屋があった町の
隣町の町年寄を勤めるなど、
町政に関わっていたことが
明らかになっています。

更に錦市場の危機に際して
市場再開に至るまで
奔走していたことも
分かってきました。

事件が解決に向かう
1774年頃までに描かれた
であろう作品は確認されて
いないのだそうです。

【水墨画の歴史】「平安人物志」

鴨川/京都

「平安人物志」とは
江戸時代に各方面で活躍した
京都在住の知識人・文化人を載せた
情報誌でした。

ランキングもされており
その当時の人気もわかる
資料となっています。

とは言ってもこれはあくまで
町民の間で人気だった絵師たちです。

頂点を極めていたのは
お抱え絵師集団の狩野派には
変わりはありません。

明和5年(1768)に
初版が出て以後、
慶応3年(1867)まで
刊行されました。

中でも画家の項は
貴重な資料となっているそうです。

応挙、若冲、大雅、蕪村
の順に載ったとされるのは、
数回あるようですが、
当時から若冲の名前は
世に響いていたのが
これでわかりますね。

【水墨画の歴史】若冲すべて失う

石峰寺

1772年、若冲56歳頃から
京都伏見の黄檗宗寺院、
石峰寺に五百羅漢を製作し始めます。

1788年の天明の大火で自宅を焼失。

晩年は石峰寺に隠遁。
五百羅漢の下絵を描き、
それを石工に彫らせる。

その資金を得るために、
水墨画を多数描き、
米一斗と交換したと言います。

そこから斗米菴(とべいあん)
という号を用いています。

当時は千体以上あった
とされる五百羅漢を
完成させたのち、
若冲は旅立ちます。

最後の最後まで
筆を離さず画を描き続けた
一生涯でした。

【水墨画の歴史】“千年待つ”


「具眼の士を千年待つ」

自分の画の価値が
わかる人を千年でも待とう

という若冲の言葉ですが、
千年待たずして海の向こうの
後に熱烈な若冲ファンになる、
アメリカ人に発見されるのです。

とてもとても偶然とは思えない
不思議なお話ですね。

1953年プライス氏が初めて
若冲の作品と出会います。

水墨画「葡萄図」です。

プライス氏曰く、
「必ずしも写実的に
描かれているものではないが
葡萄の生命観、本質を描いている。

間違いなく私の人生を
変えた作品である」

「ただの絹と紙に
 そんなにも心をゆさぶるのか」

と某番組で語っていたのが
印象的でした。

『人生を変えた作品』

絵描きとして生涯に
一度はそんな風に評価
されてみたいものだな(笑) と
思わずにはいられません。

まとめ

いかがだったでしょうか?

今回は若冲の水墨画を
中心に書いてみました。

奇想と言われる所以は、
邪道と言われようと
描きたい画題があれば、
それを活かす画材も
惜しみなく使って自由に
大胆に自らを表現していく。

その貪欲な姿を言うのかな?
と改めて思いました。

好奇心の塊のような人で、
ただ一心に仏の慈悲に
すがって好きな道に邁進した
努力の画家なのですね。

その生き方に憧れます。
記事を読んでくださった
皆様はどう思われたでしょうか?

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ABOUT US

はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。ある日突然、日本人の大切にしてきた美意識に目覚めました。中でも水墨画の面白さにハマってウン十年。独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and error で実践中。趣味は自然観察、美術鑑賞、茶道etc 京都生まれ