【水墨画の歴史】狩野永徳と探幽/天下人の絵師が繋いだ墨画の世界

こんにちは

水墨画家のCHIKAです。

文化藝術が花開くのは
平和な時代と想像しがち
ではないでしょうか?

ところが歴史を見ると
そうとは限らないようです。

今回は戦火が広がる中で
日本の絵画史、水墨画史から
外すことが出来ない大絵師集団
どのように育っていったか?
また繋いでいったか?

中でもその時代の様式を
確立した二人のビック絵師を
見ていきたいと思います。

【水墨画の歴史】狩野派の系譜略図

実線は血縁関係、破線は師弟関係

【水墨画の歴史】誕生から終焉まで

京都 銀閣寺

まずは時代を追って
狩野派の誕生から終焉までを
見ていきたいと思います。

【水墨画の歴史】東山文化

15世紀末、
京の町では応仁の乱が勃発し、
足利幕府の権力が衰退の一途を
たどっていました。

その中で8代将軍義政が、
政治の乱れに背中を向けて
文化の力で権威を示そうとしました。

義政は東山山荘(慈照寺銀閣寺)
を建築、営むことでここを
文化の拠点としました。

その山荘を中心に建築や華道、
水墨画家たちが活躍します。

ここで狩野派の始祖、正信は
将軍のお抱え絵師として活躍します。

阿弥派と呼ばれる同朋衆と共に
“筆様制作”といわれる方法で
将軍や貴族の目を
楽しませていました。

筆様制作とは 

「牧谿様に」「夏珪様に」と
中国水墨画を日本風に
コピー、アレンジして
制作する方法です。

一方で平安時代から続く大和絵も
土佐派の絵師たちによって
盛んに制作されました。

大和絵の和と水墨画の漢が
御殿を華やかに飾っていたのです。

覚えてますか?
中国画の呼び名が
時代によって変化します。

室町時代までは“唐絵(からえ)”
江戸時代からは“漢画”

大和絵に対する呼称です。

【墨絵のくくり図】

私たちの親しんでいる和の文化は
この義政の時代に確立された
とも言われています。

【水墨画の歴史】パトロンの変容

京の町を戦火で包んだ
応仁の乱(1467~77)の結果、
都で栄えた美術文化が
地方に流れていきます。

それまで文化の中心に存在した
禅宗寺院に代わって
富裕な町衆が美術の有力な
パトロンになっていきます。

明から帰国した雪舟も
パトロンの下で大いに
活躍していきます。

戦火を逃れた大名たちが
地方に戻ることによって
各地で華やかな文化が
花開いていくことになります。

【水墨画の歴史】涙でネズミを描いた<雪舟>/画聖の生涯と作品をご紹介

そして狩野家二代目元信も
狩野派の絵師集団を拡大させて
揺るぎないものにしていきます。

【水墨画の歴史】天下人の絵師

やがて織田信長によって
室町幕府が崩壊し、
天下人の時代になっていきます。

権力を我がものにした彼らは
権威の象徴として次々と
巨大かつ豪壮華麗な建造物を
造営します。

織田信長は安土城
豊臣秀吉は大阪城、聚楽第
徳川家康は二条城、江戸城

安土桃山時代といえば、
金箔地に華やかな色彩、
そしてはみ出さんばかりの
躍動感に満ちている
障壁画が思い出されます。

まさに覇者にふさわしい演出が
絵画によって成されました。

その演出を一手に請け負ったのが
天才絵師、狩野永徳です。

しかし徳川家康が天下を取ると、
次第に世の中が安定し、
身分制度が固定化されます。

徳川家の建造物を飾る障壁画等も
それまでの威圧感や力強さは
過去のものとなり、画面におさまる
瀟洒なものへと変化していきます。

【水墨画の歴史】狩野派の天下

二条城 東大手門

京の二条城、江戸城の障壁画を
一手に任されたのは
若きトップリーダー狩野探幽です。

それ以降、
家康から4代の将軍に
御用絵師として仕えていきます。

探幽ら奥絵師たちを筆頭に
ピラミッド型の一派が
出来上がっていきます。

  • 奥絵師は世襲OK、屋敷拝領、帯刀許される、
    将軍に拝謁出来る、出仕義務あり
  • 表絵師は世襲NG、屋敷拝領、将軍拝謁NG
    出仕義務なし、帯刀NG
  • 町絵師は奥絵師、表絵師に学んで
    民間で活動した町狩野

粉本を教育システムの柱にして
絵師たちに基礎的な訓練を
していきます。

このシステムがあるからこそ
多くの弟子を抱えることができ、
あらゆる顧客のニーズに
答え続けることが出来たのです。

この時代は一人の絵師作品よりも
工房制作が重要になります。

誰もが同じレベルで
描くことを求められ、
強固な身分制度の中で
個性を滅して御用を務める。

この教育システムで一人前に
育った絵師たちが国に戻って
大名お抱え絵師となり、
またその地で優秀な若者を
育てて中央に送り出す。

循環型サイクルですね。

先祖代々が絵師という家系も
存在したようです。

こうして絵師を目指すものは
まず狩野派の門を叩くという
一つのルートが出来上がっていき、
階級を問わず狩野派の
画風が隅々まで行き渡る
ことになるのです。

【水墨画の歴史】狩野派の終焉

狩野派は権力者の庇護のもと、
最も格の高い奥絵師から
町絵師にいたるまで、
確固たる支配体制を構築・
維持して独占状態でしたが、
幕府衰退とともに終焉を迎えます。

それまでにも幾度も
狩野派に反発を抱くものが
現れて抗っていました。

やがて次々に入ってくる
海外からの目新しい美術の世界も
武家層たちを大いに刺激します。

それに答える形で
新たな画派も誕生していきます。

例えば南蘋派円山四条派など
が新しい御用絵師として
登用されるようになっていきます。

もはや御殿を飾る大画面の障壁画は
必要とされなくなりました。

やがて幕府は倒され、
明治維新を迎えます。

400年続いた狩野派も
ついに途絶えます。

【水墨画の歴史】粉本主義について

ここで狩野派の教育システムの
柱ともいうべき模本、粉本について
書いてみたいと思います。

幕末日本に西洋画が流れ込んできて後、
明治時代に入ると
日本人は西洋画一辺倒に
なってしまいます。

それまで培ってきた日本の
伝統的に価値あるものを
まるで要らないもののように
あっさりと捨て去ってしまいます。

この狩野派の粉本主義も
時代の変化とともに
「個性が育たない」とか
「想像力が育たない」

ということで
負のイメージを付けられて
しまいます。

極端かもしれませんが、
美術に限らずこの世の中に
全くゼロから作り上げられたものは
何もありません。

自然や先人たちの創造物から
模倣して新たなものを
作り出しています。

美術の世界も模倣、模写は
大切な基本作業です。

さらにこの封建社会の中で
オリジナルを作るという
こと以上に大切な理由がありました。

発注者の将軍や大名たちが
狩野派の絵師たちに期待したのは、
先例、吉例を重んじること。

贈答用には格のある画題等や
細かい決まりごとに則ったものが
求められました。

いかに古今の名画の情報が必要か、
圧倒的情報量を持っているか、
またすぐに発注者に答えられるか
が大きかったのです。

いつの時代もどんな身分でも
情報量の差で決まっていきます。

【水墨画の歴史】優れたリーダーの存在

ここからは狩野派を率いた
優れたリーダーたちを見ていきます。

狩野派とは、
日本絵画史の中で最大の絵師集団
というお話をしました。

なんと!
室町時代中期から江戸末期まで、
約400年の間血縁関係で継承
されていきます。

世界美術史からみても
稀に見る絵師集団です。

【水墨画の歴史】始祖正信

その始まりは上総の国出身(有力説)
正信(1434頃~1530)が、
足利幕府の御用絵師
となったことからです。

中国の宋・元時代の画法を元に、
水墨画を基調とした
日本独自の漢画を確立しました。

大和絵を得意とする土佐派とは
画風の上では交わりがないようです。

現存する作品としては、

『周茂叔愛蓮図』国宝
(九州国立博物館蔵)

『山水図』双幅 重文
(九州国立博物館蔵)  他

「周茂叔愛蓮図」狩野正信/ 九州国立博物館蔵 国宝 ウィキペディアより

【水墨画の歴史】基礎を築く元信

2代目の元信(1476頃~1559)
400年続く狩野派の基礎を築いた
やり手の絵師です。

権力者以外にも公家や寺社、
富裕な町衆にも顧客層を
開拓していきます。

それまでの絵巻物などに
見られる大和様式に、
漢画様式の手法を融合させて
力強い新たな画風を作っていきます。

書の楷書・行書・草書にならって、
真体・行体・草体という区分で
画の概念を確立した人です。

それによって障壁画や
屏風絵などのこれまでにない
大画面の制作も大量制作も
可能にしていきました。

絵師としての素養はもちろんのこと、
時代の波にいち早く乗ることが出来る
ビジネスセンスを持っていたのが
元信と言えそうです。

・・狩野永納が著した『本朝画史』には
「狩野家は是、漢にして和を兼ぬる者なり」
という有名な一節があるが、
和漢兼帯の姿勢は元信の時代から
培われた狩野派の特色である・・

引用:ウィキペディアより

現存する主な代表作は

『四季花鳥図 』 8幅
(京都・大仙院/京博寄託)

『禅宗祖師図 』 6幅
(東京国立博物館蔵)

『釈迦堂縁起絵巻 』 6巻
(京都・清凉寺/京博寄託) 他

大仙院方丈障壁画『四季花鳥図』一部 狩野元信/ウィキペディア

【水墨画の歴史】エリート絵師永徳

大阪城

足利幕府が崩壊し、
戦国時代に突入するも元信は、
一族存続のために動きます。

次の狩野派のリーダー
となるのが元信の孫である
永徳(1543~1590)です。

元信の子、松栄を父に
早くから英才教育を受け、
天下人に重用されていきます。

安土城、大阪城、聚楽第と
主要な建造物の障壁画を
一手に任されました。

若くして狩野派のトップリーダー
となりましたが、
一族を率いる重責と
あまりの多忙を極めたために、
48歳で急逝してしまいます。

今でいう過労死と言われています。

【水墨画の歴史】京狩野と江戸狩野

永徳が急死した年は、
豊臣秀吉が全国統一を
果たした年でもあります。

それから10年後には
徳川家康と覇権を争い、
豊臣家が滅びます。

永徳というカリスマ的
リーダーを失った狩野家は、
またもや新しい時代に向けて
存続をかけて策を講じます。

豊臣が覇者となっても
徳川が覇者となっても
存続していけるように、
京と江戸に一派を分けたのです。

【水墨画の歴史】京狩野派の山楽

その時豊臣方に付いて
京に残ったのが京狩野派です。

永徳の弟子となり、
その画風や気質を受け継いだ
山楽(1559~1635)
京狩野派を率います。

続く山雪(1590~1651)
山楽の弟子で後に娘婿となり、
京狩野派一門を支えていきます。

徳川の時代となっての活動は
苦難の連続であったと
想像に難くありません。

【水墨画の歴史】中興の祖、探幽

江戸城

江戸に拠点を移した狩野家を
江戸狩野派と呼びます。

そのリーダーとなったのが
狩野探幽(1602~1674)です。

「神童」「永徳の再来」と称され、
若干16歳で江戸幕府の御用絵師となり、
狩野派一門を率います。

探幽の弟たちもそれぞれ
分家して御用絵師となります。

それぞれ分家して一派を盛り立て、
幕府が崩壊するまでの
250年を繋いていきます。

【水墨画の歴史】永徳の画風

狩野永徳筆 唐獅子図 宮内庁三の丸尚蔵館/ウィキペディア

それでは狩野派の中でも際立った
二人のカリスマトップリーダー、
永徳と探幽の画風
見ていきたいと思います。

【水墨画の歴史】大画様式

永徳の確立した画風は、
大画様式』と呼ばれます。

天下人に相応しい画題を
画面からはみ出す勢いで描く、
大画面障壁画です。

その一方で、
“洛中洛外図屏風”のように
細部まで細かく描き込んだ
細画』もまた彼が得意とした
様式です。

次々と建立される御殿を
一手に引き受けたわけですから、
それを工房作としてこなすには
大画様式でないと間に合いません。

もう一つの理由があるとすれば、
永徳の非凡な才能に
弟子たちが付いて行けるのには
限度があったのではないか?
ということです。

永徳としては得意の細画を
丹精込めて描きたかったのかも?
と想像してしまいます。

【水墨画の歴史】墨と金彩

永徳は桃山時代の風潮に合わせ、
墨と金彩を調和させることで
御殿を飾る障壁画をより
豪奢なものにしていきました。

もちろん狩野派の主軸は水墨画です。

狩野派の描いた題材に多いのが、
花鳥画と中国古典を題材に
したものです。

非常に残念なことに
永徳の描いた障壁画の数々は、
信長、秀吉の死によって
建造物もろとも消失して
しまいました。

現存したとしたら、
国宝か重文でしょう。

【水墨画の歴史】永徳の代表作

現存する主な代表作一部です。

『唐獅子図屏風』
(三の丸尚蔵館蔵)

『上杉本洛中洛外図屏風』国宝
(上杉博物館蔵)

『聚光院障壁画』国宝 ※
(京都市/聚光院)

『檜図屏風』国宝 伝永徳筆
(東京国立博物館蔵)  他

「上杉本洛中洛外図屛風」左隻 狩野永徳/上杉博物館 ウィキペディア

【水墨画の歴史】探幽の画風

名古屋城本丸御殿

狩野派中興の祖である
探幽の画風を一言で表すと、
余白の美、瀟洒 と言われます。

たっぷりとした余白と
繊細な筆致で
情景を浮かばせることに
心を配った画風です。

そこでは墨の濃淡や
線の抑揚を極端に使い分ける
ことを意識しているとされます。

また大和絵の研究も重ね、
漢画の表現の硬さに大和絵の
柔らかさを加えた独自の画風も
身につけていきます。

世の中が安定してくると、
画も落ち着いて洗練されてくる
傾向になり、画風としては
永徳とは対照的になります。

この探幽の画風が探幽様式として
後進に継承されていきます。

【水墨画の歴史】臨画帖

探幽自身が目にした
中国画、仏画、絵巻物、水墨画など、
日本と中国の古今の名画を
縮図で臨画したものです。

晩年に至るまで
描き続けたものが
膨大に残されているようです。

すでに原画が存在しない
ものもあり、貴重な研究資料と
なっているようです。

【水墨画の歴史】歴史の闇の中?

探幽は奥絵師として
古今の画の鑑定でも
才能を発揮しています。

捌き切れないくらいの
鑑定を行ったようなので、
かなりの目利きであることは
間違いないところです。

ところが近年の研究で
探幽の鑑定間違いが
発見されました。

それが探幽の祖父永徳と
ライバル関係にあった
長谷川等伯の屏風絵です。

探幽はそれを
“周文の真筆”と鑑定しました。

等伯と狩野派の確執とは
⇩ ⇩ ⇩

【水墨画の歴史】下絵の名作?!『松林図屏風』を描いた長谷川等伯とは

なんと!
等伯の印が消されていたのです。

狩野派としては敵対した
長谷川等伯の名は永遠に
消し去らなければならない
名だったのでしょうか。

歴史の闇の世界とは
残酷なものです。

【水墨画の歴史】探幽の代表作

『二条城障壁画』重文
(二条城二の丸御殿)

『名古屋城障壁画』重文
(名古屋城本丸御殿)

『四季松図屏風』(六曲一双)重文
(京都市/大徳寺)

『雲龍図』重文
(妙心寺法堂 天井鏡板)

『探幽縮図』
(京博他分蔵)    他

四季花鳥図(雪中梅竹鳥図)名古屋城障壁画/狩野探幽 ウィキペディア

【水墨画の歴史】途絶えた技術

鉛筆の伝来は徳川家康の頃
のようですが、
明治時代を迎えると
平等に学習できる教育制度が始まり、
大量に筆記用具が必要になりました。

初期の頃は輸入に頼ったようです。

鉛筆が普及すると
美術の世界でも当然、
スケッチやデッサンに
鉛筆が使われます。

かなり以前の番組で
美術専門家が
「それまでの毛筆では
一本の線で様々な表現や
迷いのない気迫の線が
普通に書かれていた。

鉛筆の出現でその文化が
なくなってしまった」

という内容のことを
述べられてました。

狩野派の技術も技法も
継承者が途絶えてしまった
ためにもはや復活はあり得ません。

この話を思い返すたびに、
この先も細々とでも
毛筆文化が繋がっていくよう
願うばかりです。


『河鍋暁斎』ジョサイア・コンドル著

河鍋暁斎は最後の狩野派と
呼ばれた絵師です。

その弟子となった建築家コンドルが
師匠の作品制作をつぶさに
記録した貴重な内容となってます。

【水墨画の歴史】特別公開日程

大徳寺塔頭 聚光院
国宝里帰り 特別公開

2022年9月3日~2023年3月26日

京都国立博物館に寄託されている
永徳と父、松栄による本堂障壁画
全46面が里帰りし、一挙公開中です。

筆者も拝観、鑑賞してきました。
40分ほどでとても丁寧な解説つきで
原画の襖絵を間近で鑑賞出来ます。

通常は非公開です。
この機会をお見逃しなく!!

大徳寺 聚光院 特別公開/京都春秋

ご予約優先のようです。
詳しくはサイトでご確認ください。

まとめ

いかがでしたか?

今回は狩野派の流れと
トップリーダーたちの役割を
書いてみました。

1.狩野派の誕生から終焉まで
1.トップリーダーたちの決断と継承
1.失われた毛筆の技術

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ABOUT US

はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。水墨画を独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and errorで実践中。“変化・継承する素晴らしさを自然から学びたい”思いで里山暮らしを体験中。野鳥好き・猫好き。アクリル画にも挑戦中。京都生まれ