【水墨画の歴史】禅が日本の文化芸術を変えた?水墨画との関係とは

こんにちは
水墨画家のCHILAです。

「なんで水墨画って修行の
イメージがあるんだろ?」
と考えたことはありませんか?

かのスティーブ・ジョブズが
禅に深く影響されていたのは
有名ですね。

禅ってそもそも
どんな宗教ですか?

生きにくい世の中を
エゴと執着を手放し、
無になって今に生きること。その修行

今で言うマインドフルネスですね。

ある日その教えと共に
水墨画は海を越えて
やってきました。

今回は
禅と日本の水墨画の
切っても切れない関係と
禅宗が日本文化にもたらした
影響を歴史的3つの流れと共に
見ていきたいと思います。

【水墨画】中国の禅、日本の禅

まずは本家中国の禅の
始まりから簡単に
見ていきたいと思います。

座禅そのものは古くから
仏教の実践的基本行の
一つとしてありました。

中国の唐時代の末に
座禅を教えの中心に据えた
仏教集団が現れました。

それが“禅宗”です。

宗派の一つになったからには
初祖が必要となります。

そこで遡って座禅三昧で
修行を積んだ達磨
禅宗の祖となりました。

その教えは「不立文字

文字を必要とせず、
ひたすら座禅をすることで
悟りを得ていく教えです。

日本では鎌倉時代に 二人の
留学僧が流派を開きました。
これが1つ目の流れです。
続いて室町時代には幕府が
禅宗の宗派の一つを保護確立させ
日本仏教の 一つとなっていきました。
これが2つ目の流れです。

その後、中国の禅は
明の時代には衰退して
いきました。

その明時代の禅宗が
江戸時代に渡ってきました。
これが禅宗3つ目の流れです。

禅宗はすでに中国にはなく、
日本で花開いていった宗教です。

そして今や全世界に
愛好家がいます。

では禅宗の流れの中で
水墨画を見ていきたいと思います。

【水墨画】鎌倉時代の禅と水墨画

貴族社会が終わりを告げて
鎌倉に幕府が置かれて
武家社会が始まります。

2つの禅宗の宗派が生まれます。

【水墨画】禅問答

一つは“公案”と呼ばれる
禅問答が特長の臨済宗です。

栄西(平安末期~鎌倉初期)
という僧が宋に2度も留学して
その教えを持ち帰って開きました。

もともと天台宗に学んで
いましたので、
栄西が布教を始めると
それを良しとしない既存の宗派から
激しく圧力がかかります。

そこで救いの手を差し
伸べたのが鎌倉幕府を
中心とする武士たちでした。

自らの厳しい行の
スタイルが武士の気風に
あったのでしょうか?

幕府の庇護を受けて
臨済宗は次第に旧来の
宗派にも影響を与えながら
広まっていきました。

その教えの中での絵画としては
次のようなものです。

“達磨図”
初祖像として描かれます。

“頂相”
禅の高僧の画で師から弟子に
与えられます。

もう一つは葬儀や忌日に
供養の対象の姿を掲げる
ためのものです。

“禅機図”
禅問答などを描いた画です。
国宝『瓢鮎図』(如拙)が有名です。

【水墨画】禅の象徴である“達磨画”入門/達磨を描いてみよう

【水墨画】只管打坐

もう一つは“只管打坐”を唱えた
曹洞宗です。

ただひたすらに座るのが
只管打坐の意味です。

日本の曹洞宗の開祖は
道元(鎌倉時代初期)です。

道元もまた延暦寺にて
天台宗を学びその後、
宋に渡って曹洞禅を学びます。

帰国後は深山幽谷の地を
目指して越前の山中に移り
大仏寺(のちの永平寺)を
建立します。

その教えはおもに豪族や
農民に広まっていきます。

「曹洞宗の禅は壁に向かって
臨済宗の禅は対面して」
というスタイルの違いがあります。

また曹洞宗は本山はあっても
流派という考え方はなく、
すべて“ひとつの家”という
在り方のようです。

【水墨画】斬新だった水墨画

偶像崇拝がない禅宗は
その教えを書や絵画によって
示していきます。

また鎌倉時代から中国へ
留学する僧が続出して
新しい大陸文化を持ち帰ります。

禅宗寺院(禅林)は文化文物
交流の窓口的な存在として
大きな役割を持っていきます。

その文化文物の中でも
代表的だったのが
墨蹟や水墨画です。

特に墨一色で描かれた
モノクロームの画は
それまでの着色画しか知らない
人々にとってかなり斬新に
映ったと言えます。

その他、
製茶法、喫茶、青磁、
堆朱、建築(禅宗様)  他
もこの時代にもたらされました。

【水墨画】南北朝の禅と画

京都嵐山 天龍寺

鎌倉幕府が倒れると
後醍醐天皇政権と足利尊氏政権に
分かれて南北二人の天皇の
混乱時代が続きます。

禅宗はこの混乱期でも
依然中国との交流も盛んで
国際色豊かにやや日本化
しながらも成熟していきます。

これまで中国から渡ってきた
水墨画(宋元時代)をお手本に
自らの修行の一つとして
水墨画を描く修行僧が出てきます。

ここに至って日本でも
水墨画が描かれ始め、
黎明期を迎えます。

【水墨画】黎明期の画僧

黙庵(鎌倉から南北朝)
『四睡図』重文
『布袋図』

中国留学先で没する。
道釈人物画に優れ、
牧谿の再来とも評された。

可翁(南北朝、生没年不詳)
『寒山図』国宝(個人蔵)
『けん子和尚図』重文(東博)

黙庵と同じく留学経験を持つ禅僧。
山水画、花鳥画、道釈人物画、
そのすべてに職業画家ほどの
腕前が見られるとか。
今だ解明されていない部分も。

【水墨画】バサラ大名の出現

少し禅宗から話が逸れますが、
面白いアートの体現者たちが
この混乱期に現れます。

戦国時代に出現するのが
“傾奇者”なら、

南北朝時代には
“バサラ大名”と呼ばれる
それまでの観念とは
全く違った美意識を持って
贅沢三昧、派手に振る舞う
武家たちのことを指します。

どちらも混乱期に
出現しているのが
歴史の面白いところです。

けれどこのバサラ大名たちが
次の時代への文化の橋渡し的
役割をしているのが、
さらに面白いところです。

中国からの高価な輸入品、
水墨画や青磁、堆朱などを
賭け物として遊宴を
繰り広げていきます。

その遊宴の場となった
建物が書院造りへ。

またその中で繰り広げられた
遊興が茶道や立花、連歌等へ、
と整えられていきました。

これも歴史的な目を持って
見てみると重要な人物たち
ということになるのでしょうか。

【水墨画】枯山水の庭園

京都 西芳寺(苔寺)

この南北朝の混乱期に
もう一つ、禅宗寺院に
見られるものがあります。

「深山幽谷の地に籠って
修行が出来るように」

山奥の代わりに庭の中に作り出す。
それが禅の修行と枯山水の関係です。

水墨山水画はその設計図的な
役割もあったかもしれません。

当時活躍したのが
夢窓疎石(1275~1351)という
禅僧で作庭家です。

京都の西芳寺、天龍寺が有名です。

【水墨画】侘び・寂び

日本独自の美意識として
表現されるのがわびさびですよね。

室町時代後期には
茶の湯とともに浸透していきます。

より質素な道具を使うことで
その精神は「侘茶」として
やがて禅の思想とも
結びついていきます。

和漢の境をまぎらかす」とは
侘茶の創始者とされる
茶人村田珠光(1423~1502)の
言葉です。

高価な渡来物ばかりを
有難がって使うのでなく、
和物を取り入れながら
和と漢を調和させることで
独自の新しい美を作る。

侘びと寂びの表現は、
不足の美”

茶道、俳諧、建築、連歌、
能楽、などなど
様々な分野で見出される
日本独自の美意識の世界です。

もちろんこのような
美意識の中で禅の思想とも
結びついたのですから
水墨画も例外ではありません。

足利将軍の側近であった
芸能集団の三阿弥らは
唐画をよく知り研究して、
自らも水墨画家でした。

まさに和なのか漢なのか?
『まぎらかし』の
名手だったのでしょう。

【水墨画】五山・十刹制度

京都 南禅寺山門

南北朝から室町時代にかけて
五山制度の確立があります。

<京都五山>
別格  南禅寺
第一位 天龍寺
第二位 相国寺
第三位 建仁寺
第四位 東福寺
第五位 万寿寺

<鎌倉五山>
第一位 建長寺
第二位 円覚寺
第三位 寿福寺
第四位 浄智寺
第五位 浄妙寺

五山・十刹制度という
寺院の格付け制度は、
3代将軍義満の頃に完成します。

寺院の格付けの意味は
室町幕府の都合に過ぎません。

大きな理由が次の二つ。

  • 関東に拠点を置いた
    室町幕府は臨済宗を
    強く保護したため、
    ゆかりのある寺院を
    格付けしていった。
  • 京都における既存の
    他の宗派に対する牽制の
    意味合いがあった。

臨済宗の宗派の中でも
世俗化を嫌って民間に布教
していったのが大徳寺、妙心寺
になります。

【水墨画】将軍から愛された画僧

室町時代中期に
京都五山第四位の東福寺で
活躍した画僧がいます。

吉山明兆きっさんみんちょう
(1352~1431)

終生東福寺のために
絵仏師として仏画や道釈画、
頂相を制作しました。

作風は宋元時代の
仏画の画風を学び、
しっかりした輪郭線と
濃い色彩が特色とされています。

如拙や周文らの
相国寺派に対して東福寺派
呼ばれています。

晩年には水墨山水画を描いた
ようですが、専門書によれば
“可能性もある”となってます。

《代表作》

「渓陰小築図」国宝/紙本墨画
詩画軸 /金地院蔵(東博に寄託)

詩画軸とは掛軸の下方に画があり、
上方に画にまつわる漢詩文が
書かれているもの

明兆筆/渓陰小築図(部分)ウィキペディアより

「白衣観音図」重文/紙本墨画淡彩
MOA美術館蔵

「聖一国師像」重文/紙本墨画
東福寺蔵

【水墨画】明兆のエピソード

またまた話が逸れますが、
東福寺と言えば紅葉の名所です。

通天橋からの眺めは
それはもう美しい色とりどりの
紅葉の海が広がっています。

ところが明兆のころには
もみじではなく
桜が植わってました。

将軍義持から画の褒美を
受けることになった明兆は
僧侶たちの修行の妨げの恐れ
のある桜の伐採」を願い出た
ということです。

東福寺境内に植えられているのは
中国より持ち帰ったとされる
“唐楓トウカエデ”です。

黄金色に染まる特長があり、
イロハモミジ他との紅葉は
見事というほかありません。

【水墨画】漢画の祖

南北朝から室町時代中期頃に
如拙という画僧が活躍します。

生没年不詳の画僧ですが、
足利家との繋がりも強く、
相国寺を活躍の場としたことが
確実だとされています。

あの国宝の禅機図、
『瓢鮎図』が代表作です。

『瓢鮎図』部分/如拙筆 ウィキペディアより

【水墨画】周文様式

京都 金閣寺

続く周文(室町時代中期)は
如拙に画を学んでいます。

室町幕府の御用絵師
でもありました。

日本の水墨画に大きな足跡を
残した人物とされています。

ただその作品はほとんど
“伝”となっていて
真筆かどうかは
わからないようです。

“伝”の付く作品から観る
周文の作風は宋元時代の画に
倣いながらも中国風でない作風
ということで
周文様式”と呼ばれています。

小栗宗湛、雪舟等楊など
優れた弟子を育て、
室町時代の水墨画の確立に
大きく貢献した画僧です。

「竹斎読書図」一幅/国宝
東京国立博物館

「竹斎読書図」一幅周文筆/国宝 
東京国立博物館蔵/ウィキペディア

「四季山水図屏風」六曲一双/重文
東京国立博物館

【水墨画】周文から雪舟へ

京都 銀閣寺

室町時代の水墨画の巨匠
といえば雪舟等楊です。

相国寺での画の師匠は
周文とされています。

雪舟についてはすでに
こちらの記事でご紹介しています。
⇩  ⇩  ⇩

【水墨画の歴史】涙でネズミを描いた<雪舟>/画聖の生涯と作品をご紹介

【水墨画】パトロンの変容

応仁の乱の後、
京の町は焼け野原となり、
それまで美術のパトロンであった
禅宗寺院に代わって富裕な町衆が
担っていきます。

地方の大名たちが権力を持ち、
独自の文化が花開いて
いくことになります。

大きく花開いたのが
周防大内氏の庇護を受けた
雪舟等楊ですね。

狩野派二代目の元信も
和と漢を融合させて
新たな画風を作り上げ、
広範な顧客を獲得して
勢力拡大を計りました。

【水墨画】禅宗画と禅画の違い

3つ目の流れにいく前に。

ちょっと型破りな手法で
禅宗を説いた僧たちがいます。

禅の画のことを“禅画”と
一括りで言うことがありますね。

でも美術史的には違うんです!

今までご紹介した
鎌倉時代から室町時代の
修行僧や画僧が描いたものを

“禅宗画”“禅林画”“初期水墨画”

江戸時代からの禅僧のものを
“禅画”と区別しています。

比較的新しい呼び名です。

【水墨画】禅画

指月布袋画賛 仙厓 出光美術館蔵/ウィキペディアより

江戸時代も中期頃になると
庶民の間にも禅が広がっていきます。

ちょうど元禄時代の
バブルが弾けたころ

在野の臨済宗の禅僧が
難しい禅の教えをわかりやすく
水墨画を用いながら説いたのです。

なかでも近年特に関心が広がったのが
白隠慧鶴(1685~1768)と
仙厓義梵(1750~1837)です。

布教が目的のため
技法などはほとんど無視して
描いてます。

【水墨画鑑賞】初心者の方に出会ってほしい名画中の名画をご紹介

【水墨画】禅宗中興の祖

黄檗山万福寺/京都宇治

最後3つ目の禅宗の流れです。

江戸時代17世紀後半、
中国は明から清への
王朝交代の混乱期、
沢山の高僧が亡命します。

その中の一人であった
中国臨済宗の高僧
隠元禅師が新しい禅を
伝え広めました。

それが黄檗宗です。

徳川幕府から広大な寺地を
与えられ京都宇治の地に
“黄檗山萬福寺”と名付けて
禅寺を創建しました。

この時代、後水尾天皇も
禅に帰依しています。

【水墨画】すべてが中国風

中国明朝様式で建てられた
伽藍に響き渡るのは、
唐音と呼ばれる中国語の読経です。

鎌倉・室町時代に
盛んだった禅宗は
この頃にはすっかり
日本化していました。

そのため読経から仏像、
伽藍配置まで全てにおいて
中国様式の新しい禅に
カルチャーショックを
受けたのは天皇や幕府
だけではありませんでした。

あの伊藤若冲も後半生は
黄檗寺院を活動の場と
しましたので大きな影響を
受けました。

【水墨画の歴史】伊藤若冲は水墨画も凄い!独学絵師脅威の表現法

隠元禅師は当時最先端の
医術、建築、文学、印刷、煎茶、
普茶料理等々、様々な文物をもたらし、
江戸の文化に多大な影響を与えました。

【水墨画】南画

この時代に渡ってきた
墨の文化としては、
明清時代に流行した
“文人画”になります。

中国では知識階級の描く
アマチュアの絵画であり、
職業画家とははっきり
区別されていました。

中国文人画家については
こちらのブログで  ⇩ ⇩ ⇩

【水墨画の歴史】中国に始まり日本で継承されていった水墨画とは

日本では南画と呼ばれるのが
その分野で与謝蕪村池大雅
代表的な画家になります。

まとめ

いかがでしたか?

今回は
禅と水墨画は切っても
切れない関係ということで、
3つの流れの中で見てきました。

1.鎌倉時代の禅宗寺院と水墨画
2.室町時代の禅宗寺院と画僧たち
3.江戸時代の黄檗宗と日本の芸術の成立

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はじめまして 水墨画作家のCHIKAです。水墨画を独学で学んだ経験を活かし、全くの独学でも楽しめる方法を日々trial and errorで実践中。“変化・継承する素晴らしさを自然から学びたい”思いで里山暮らしを体験中。野鳥好き・猫好き。アクリル画にも挑戦中。京都生まれ